錆びついた歯車
寝坊したと思い、慌てて目を開けた。
知らない天井。知らない布団。鼻の奥をつくような消毒液の匂いと、一定の間隔でなり続ける無機質な電子音。
ここが病院だと気づくのに、そう時間はかからなかった。周りにはあわただしく動く人々がいるが、誰一人として僕を見ていない。そこにいて当たり前の、置物にでもなったかのようだった。
自分の顔に触れようと、シーツの下の腕をあげる。ひどく重たい。視界に入った手は、記憶にある自分のものよりもずっと骨ばっていて、不気味なほどに大きかった。近くを通った看護師を呼び止めようとしても、喉から漏れ出たのは、聞いたこともないぐらい低い掠れた音だった。
ようやく僕の異変に気付いた看護師と目が合い、その頃になってようやく、全身の感覚が鈍い輪郭を持って戻ってくるのを感じた。
駆けつけた医師の説明の事務的な響きが、かえって事態の取り返しのつかなさを浮き彫りにしていた.
「……残念ですが、ご両親は即死でした。君自身は頭部を強打し、丸四年間、昏睡状態にあったんです」
交通事故。両親の死。四年の空白。
与えられた情報を、四年間眠っていた脳が必死に噛み砕いていく。さっきまでの僕は、地域一番の進学校に通う、未来ある十七歳だった。成績は常に上位で、志望大学の判定も悪くなかった。
それが目覚めた瞬間、二十一歳の「空白」を抱えた男になっていた。
かつての同級生たちは、今頃は大学三年生か四年生だろう。就職活動に奔走し、社会に出る準備を終えようとしている年齢だ。一方の僕は、今日が二十一歳の誕生日だという事実すら、自分事としてとらえることができなかった。
長期間のリハビリを経て、ようやく家へと帰れる日がやってきた。親戚か先に片づけてくれたという自宅は、驚くほどすっきりとしていた。
遺品整理という名目で、僕の帰るべき過去は綺麗に処分されていた。夢ひとつ見なかった竜宮城から帰還した浦島太郎。煙となって僕の時間を埋めてくれる玉手箱すら、ここにはない。僕という人間が初めからいなかったかのように、世界はあまりにも滑らかに進んでいた。
事故の賠償金と両親の保険金。当面の生活費には困らないだけの、数千万という数字が口座には並んでいる。だが、やるべきことは山積みだ。止まったままの年金手帳の処理、健康保険の切り替え、何より「これからどう生きていくか」という人生の再設計。
二十一歳、中卒、職歴なし。社会のレールから完全に外れたただの不適合者だった。
通院のため、埃っぽい空気を肺に吸い込んで外に出たが、生きた心地はしなかった。
すっかり細くなった脚を引きずり、駅へと向かう。四年の歳月で様変わりした街の景色や、行き交う人々の見慣れないデバイスが、僕の疎外感をさらに加速させていく。
駅のホームに立った瞬間、圧倒的な不安感に背後から首筋を掴まれた。
不可解なのは、そのおぞましい感覚に対して、僕は「懐かしさ」を覚えてしまっていることだ。
五感のどこで受け取っているのかは分からない。ただ、すべての感覚器官の隙間から、毒を静かに流し込まれてくるような感覚だ。
異常の発生源は間違いなく、すぐ後ろだった。
しかし背後にいたのは、ただの中年男性が一人立っていただけだった。にもかかわらず、心臓に直接凍らされたような強烈な冷感が、僕の呼吸を浅く、不規則にさせた。
救急車を呼ぶべきか。いや、そもそもどこがどうおかしいのかも説明できない。混乱する頭を置き去りにして、極限状態に陥った生存本能だけが、目の前にいる唯一の他者へと勝手に救いを求めていた。
「あのっ……」
しかし男は、怪訝な顔をして僕を睨みつけると、舌打ちをして足早にその場から離れていった。彼が遠ざかるにつれ、僕の心臓を締め付けていた悪寒も嘘のように消え去った。
やはり精神的な後遺症だろうか。思考の余裕が出てきたと同時に逃げるように電車に乗り込む。陽気でどこか滑稽な「蒲田行進曲」の発車メロディが鳴り響き、無機質なドアが閉まった。窓越しに、彼がホームのベンチへ力なく座り込む姿が小さく遠ざかっていく。
五分ほど経ったころ、急ブレーキの金属音とともに、電車が緊急停止した。
「ーーただいま、後方の蒲田駅におきまして、お客様が列車と接触した影響により、運転を見合わせております」
オブラートに包まれた、人身事故を告げる定型文。しかし蒲田は、僕がたった今乗り込んだ最寄り駅だった。
その瞬間、僕の心臓が嫌な音を立てた。ホームに残っていたあの男の姿が脳裏から離れなくなる。
あの悪寒は、彼の「終わり」を告げるサインだったのではないか。そんなオカルトじみた仮説を妄想しながら、振替輸送のバスで病院へと向かった。
会計待ちのロビー。僕の数メートル前を歩いていた青年の背中から、駅の中年とまったく同じ「不安感」に襲ってきた。
松葉杖をついた彼は、制服を着て、付き添いの母親らしき女性と軽口を叩き合っている。
「あーあ、明日からまた普通に授業かよ。マジでだるいな」
面倒くさそうに吐き捨てられたその愚痴に、僕は無意識のうちに「わかるよ」と心のなかで頷きかけていた。同世代特有の、退屈な日常に対する共感。
――違う。今の僕には、「明日行く場所」なんてどこにもない。
自分だけが巨大な時計から外れ、空回りすらできない錆びついている状態だと思い出した。
僕の精神は十七歳から一歩も進んでいないというのに、目の前で笑う彼は同世代なんかじゃない。僕より四つも年下の、ただの高校生だ。
明日からまた自分の居場所へと帰っていく若者。死からは最も遠い存在のはずだった。
しかし、彼が自動ドアを抜けて病院エントランスに向かった瞬間、僕の心臓を握り潰すような悪寒が唐突に跳ね上がった。
「ーー危ないッ!」
考えるより先に、体が動いていた。痛む脚を全力で踏み出し、青年の背中を思い切り突き飛ばした。
直後、全身を叩くような轟音が響き渡った。
青年と僕が、ほんの数秒前まで歩いていた場所にはアクセルとブレーキを踏み間違えた車が突っ込んで大破していた。
「ひっ……!」
「きゃあああっ! 誰か、医者を呼んできて!」
悲鳴と、ぱらぱらと降り注ぐガラスの音。周囲は一瞬にして凄惨なパニックに落ち、自分を中心に狂騒が広がっていく。
だが、僕の心は、不気味なまでに静まり返っていた。
青年が纏っていた不安感も、心臓を冷やしていた氷も、今は嘘のように消えている。喧騒の中心にいる僕を満たしたのは、嵐が過ぎさっと後のような完全な静寂と、確かの安堵だった。
「あ、ありがとうございます……あなたが突き飛ばしてくれなかったら、俺、死んでた……」
青年の母親が泣きながら僕にすがりつき、何度も頭を下げる。周囲の人間も「凄い」「命の恩人だ」と口々に僕を称賛し始めた。
二十一歳、中卒のニート。社会の巨大な時計から外れ、空回りすら許されなかった錆びついた歯車。
そんな無価値だった僕に、他者からの強烈な感謝と肯定が注ぎ込まれた瞬間だった。
ドクン、と。胸の奥で、四年ぶりに心臓が鼓動を打ち始めた気がした。昏睡から目覚めて以来、ただ機械的に生かされたに過ぎなかった僕の体の隅々まで、温かい血液がめぐっているのを感じる。
病室で目覚めたあの日からずっと、ただの観測者として生活していた僕が、他人へ何かを与えることができたという強烈な充足感により、「生きている」という圧倒的な実感を得ることができた。
震える手を見つめる。
この感覚を、ただの後遺症だと思っていた。
だが違う。
あの心臓を冷やされるような感覚。
「死」をさまよった俺にだけ、観測を許された何か。
世界から取り残された俺にも、まだ役割があるらしい。
その後、駆けつけた警察官からの事情聴取や、大騒ぎする病院スタッフたちの対応に追われ、ようやく解放された頃にはすっかり夕方になっていた。
当初の目的だったリハビリメニューを上の空でこなしながら、俺はずっと自分の掌を見つめていた。
病院の自動ドアを抜け、夕暮れの街へと歩み出す。行き交う無数の人々。すれ違う彼らの背中に、あのノイズを纏った人間がいないか、無意識のうちに探している自分がいた。
俺には、やるべきことがある。社会の時計から外れたこの俺にしかできない、価値の証明が。
数時間前まで息苦しかった街の喧騒が、今はひどく心地よかった。自分を置き去りにしたはずの世界が、今は俺の眼下で回っているようにさえ感じる。
ショーウィンドウのガラスに映る自分の口角が、醜く吊り上がっていることにも気づかないまま、俺は確かな足取りで家路についた。




