第9話 魔法って地道な努力だった
夜になると、師匠はいつものように小さなガラスのランタンに光を入れる。
掌の上で生まれた淡い光が、ガラスの中に吸い込まれていく。
光は揺らぎながら徐々にガラスの形に合わせて安定し、部屋の一角を静かに照らした。
この灯りは数時間持つ。
私が文字の勉強をするための明かりだ。
机に向かい、教本を開く。
もう記号文字は読めるようになっていた。
書くのはまだ少し時間がかかるけれど、文章として読む分には問題ない。
この世界の記号文字は、前世でいうひらがなみたいなものだ。
一音に一文字対応しているから覚えやすい。
問題は――象形文字。
漢字みたいに種類が多くて複雑で、さらに魔法陣に使う文字は古代文字由来の旧字体が多いという。
形も意味も覚えにくい。
魔法士なら、自分が扱う属性の文字はかなりの数の古代文字を扱えるものらしい。
そして師匠は――全属性。
つまり相当な数の文字を使いこなしていることになる。
前世なら
「はいはいヴァレリウス、全属性のチートキャラね」
で済ませていたけど。
実際に自分でやってみると、そんな簡単な話じゃない。
魔法を覚えるのは、とにかく大変だ。
制御も、文字も。
私は魔力量チートだけど、それだけじゃ何にもできない。
師匠がどれだけ才能に恵まれていたとしても、これだけの量を覚えて使いこなすのは並大抵の努力じゃできない。
黙って本を読んでいる師匠の横顔を見る。
ランタンの光に照らされた横顔は、艶やかな黒髪が少しかかっていて、相変わらず美しい。
うっとり眺めていると――
「手が止まっている」
鋭い呟きが飛んできた。
「あっ、はい、すいません」
慌てて教本に目を戻す。
カナ文字と簡単な象形文字が混ざった文章で書かれた物語。
前世でいうと、小学校中学年くらいの国語の教科書のイメージだ。
これで三冊目。
一冊一学年って感じかな。
一ヶ月くらいでここまで読めるようになった。
割と早い方なんじゃないかと思う。
誰とも比較できないけど。
教本には問題も載っている。
内容の要約とか、指示語の抜き出しとか。
文字が読めれば言葉は普通に使えるから難しくはない。
ただ――
象形文字は書き順も正確じゃないと魔法陣で苦労するらしい。
一応書き順のルールはあるが、古い文字になる程例外が多くなっていく。
正直、――めんどくさい。
「できました」
師匠が黙ってノートを手に取る。
少しだけ目を通してから言った。
「ここと、ここ」
指摘される。
文字自体は間違っていない。
書き順だ。バレるんだな、やっぱり。
私は黙って教本を開き、正しく書き直す。
「では、次の教本だ」
師匠が本棚から新しい冊子を取り出す。
文字が一回り小さい。
難しそうだ。
「まずは通して読め。わからない文字は調べろ」
机の上に、小ぶりで分厚い本が置かれた。
これは……辞書っぽい?
革の表紙をそっと指でなぞる。
角が少し擦れていて、長く使われてきた本だと分かる。
ページをめくると、ところどころに細い印が残っていた。
文字の横に小さな線や記号。
何度も開かれた跡。
「どうした」
「あ、いえ……この本、すごく使われてるなと思って」
師匠は少しだけ視線を落とした。
「子供の頃に使っていたものだ。古いが、使いやすい」
それだけ言って、また本に目を戻す。
子供の頃。
その言葉が、少しだけ意外だった。
師匠にも、子供の頃があったんだ。
当たり前のことなのに、なんだか不思議に感じる。
改めて本の中身に目を通す。
中は文字一つずつを解説してあるようで……そう、前世の漢和辞典にすごく似た作りだった。
文字の複雑さの順に並び、さらに属性別の索引もある。
これ、完全に部首索引と一緒だ。
漢和辞典で勉強した記憶はほとんどないけど、使い方だけは知ってる。
「なるほど、属性で形が似てるんですね。それで属性ごとの分け方になってるんだ」
師匠が少し驚いた顔でこちらを見た。
「……飲み込みが早いな。なら使い方は教えなくても大丈夫だな」
「えっ、あ……はい」
ああ。
教えてもらうチャンスを逃した。
手取り足取り教わるチャンスだったのに。
前世が日本人だったばっかりに、うっかりさっさと理解してしまった。
非常に惜しいことをした。
辞書をぱらぱらとめくる。
すごい数だ。
辞書って大体こんなもんだろうけど、知らない文字でこの量は普通に気が滅入る。
前世の私でいうなら、そう、英英辞典とか渡されたらきっと今みたいな気分になると思う。
わからなくはないけど、かなりわからない感じ。
思わずため息が出た。
「まだ初歩だぞ。ため息は早い」
「あああっそんなことないです、大丈夫です!」
そう、先は長いけど。
今日は新しい教本に進めたし、辞書も使わせてもらえることになった。
文字の仕組みが日本語に似てるのはラッキーだと思って頑張らなくちゃ。
大魔法士ヴァレリウス様に見放されないように。




