9-1
「はっはっはっはっ。残念だったな、槇。そして絹谷翁、予告通り確かに『ガリラヤの海の嵐』を頂いた」
屋根の上で高らかに勝利を宣言をする。
バルコニーに降り立った時に壁の『ガリラヤの海の嵐』を私の描いた自画像へと戻しておいたから、今頃槇は唖然としているだろう。今回の絵はなかなかうまく描けていると思う。レンブラントの自画像の構図をオマージュした作品だとわかってもらえるだろうか。
そして、それを変質させたものを小夜ちゃんの扮する長沢が絹谷を言いくるめて談話室に飾らせたというわけだ。この時に重要なのは、絹谷自身には贋作であるとわかる程度の出来であり、なおかつ紬ちゃんには贋作だと知られないようにすること。
これは使用人を談話室に近づけさせないことで問題をクリアした。全ては身内以外の人間を信用しない絹谷の性格を利用したものだ。
こうして華麗に『ガリラヤの海の嵐』を盗み出したというわけさ。
「……まぁ、いいや。帰ろう」
もう用事は済んだし、今頃小夜ちゃんも屋敷を出た頃だろう。
そう思って飛行船に繋がったワイヤーを巻き上げようとした瞬間、背後からもの凄い勢いで何かが迫ってきた。
「うぉわっ」
気がついた時には自分の身体が宙に浮いていて、世界が逆さまに見えていた。
それでようやく投げられたのだと気づく。
慌てて取られた腕を振りほどき空中で体勢を立て直すが、すかさず回し蹴りを放ってきた。
その脚に自分の脚を合わせて、蹴りの勢いを利用して大きく距離をとる。
「ふぅ……」
「……っ!?」
改めてその姿をこの目で捉える。槇が連れてきた〝怪盗狩り〟は、私の予想を遙かに超えた人間のようだ。身長二メートルくらいのガチムチでむっさい男じゃなかったというのが、一番の予想外と言えるかもしれない。
アリッサ・クルーツィスのことは小夜ちゃんから大まかな情報を聞いていたが、実際に見ると随分と若い感じがする。幼い顔つきとしなやかな身体つきが、未成熟な印象を与える。
だが、その瞳に映る意志は鬼気迫るものがあった。
この若さで私を容易く投げる程の使い手とは先が恐ろしい。並の怪盗では彼女の前では赤子同然に捻られてしまうだろう。
「これは、ただじゃ帰してくれそうにないね」
再び迫り来るアリッサちゃんと目が合う。まるで獣のような、相手を捻り潰すことを微塵も躊躇わない瞳。なるほど、まさにメドヴェージだ。
猛進してくる彼女に対し、私は素速くコートを脱ぐと前面に放って視界を奪う。
そして、そのまま突っ込んでくるアリッサちゃんに足払いをかました。
「つっ!」
「あっ、しまっ……!」
あまりにも彼女の動きが滑らかだったので、ここが三階建ての屋根の上だということを失念していた。アリッサちゃんは勢い余って屋根から転げ落ちてしまう。
「……ん?」
と思ったら、屋根の縁から白い手が覗いていた。間一髪のところで掴むことが出来たようだ。
助けるために近づこうとしたが、その前に何事もなかったように上ってくる。
そういえばこの子、バルコニーから素手で屋根に上ってきたのか。
もうヤダ、早く帰りたい……。
「……強いな。さすがに他の怪盗とは実力が違う」
「それはどうも。それより、夕飯の支度をしたいから帰っていいかな?」
「ここで眠ればその必要はなくなる。それと、しばらくは点滴生活だ」
そう言いながらアリッサちゃんはこちらへ近づいてくる。何故か構えを取る気配は一切見せない。
あと数メートルというところでポツリと呟いた。
「気をつけろ。手加減は出来ない」
「え?」
そしてなおも構えずに近づき、ほぼノーモーションで上段蹴りを放ってくる。
間一髪のところでそれを捌くが、次の瞬間には喉元に手刀が迫っていた。
「はやっ」
なんとか手刀を凌いでも、今度は腕を掴まれて投げられそうになる。
そのどれもが予備動作が殆ど見えない程に鍛え上げられた技で、私でも次の手を読むことが難しい。的確に急所を狙ってくるので捌くことは出来るが、この激しい連撃から逃げ出す隙はない。
繰り出される打撃も、まともに一撃喰らえば即座に沈んでしまいそうな威力だ。さらに投げ技まで同時に出してくるのだからたまったものではない。
この動きは……コンバットサンボ?
「いや、まさかシステマか?」
「っ!?」
一瞬アリッサちゃんの勢いが弱まる。図星をつかれて動揺したようだ。
だが、すぐに勢いを取り戻して息をのむような猛攻を仕掛けてくる。
「……ということは君の師は軍人かな。父親かい?」
「くっ……!」
よく見ればアリッサちゃんはスーツには似合わぬ程のごつい軍用ブーツを履いている。屋根の上でも踏ん張りがきく優れ物のようだ。
「さすがにシステマ使いに会うのは初めてだよ。やはり実戦的武術だけあって、技に慈悲がないね」
「……っ!」
アリッサちゃんは自ら大きく距離をとると、私を強く睨みつける。
どうやら私のお喋りで神経を逆撫でしてしまったようだ。そして彼女は無言のまま腰に手を回すと、棒状の何かを取り出した。
「警棒? ……いや、それ以上に嫌な予感がする」
見た目は長さ二十センチ程の金属製の警棒だが、鍔のようにピンのついた不自然な出っ張りがある。
その警棒のようなものをアリッサちゃんは両手で掴むと、おもむろに両側に引く。
そして現れたのは鈍く光るブレード。
「……システマ使いにスペツナズナイフか。とりあえず、冗談はその可愛らしい容姿だけにしてもらいたいね」
まったく、協会はなんてものを手に入れたんだ。怪盗を捕まえるだけにしては、いくらなんでも凶悪すぎる気がするよ……。
「安心しろ、応急処置の術は心得てる。急所も外すよう心がけよう」
「いや、全然安心出来ないよね。それ」
端から刺す気満々のアリッサちゃんに心底恐怖を覚える。この子は戦うことに長く浸かりすぎて、倫理観が薄れてしまっているようだ。
だが、逃げようにも背を向ければ確実に刺される状況になってしまった。スペツナズナイフの間合いは十メートル以上はあるので、遮蔽物のない屋根の上では逃げようがない。
「あまり抵抗するな。狙いが逸れたら死ぬかもしれん」
「ちょっ……待っ……」
恐ろしいことを言いながら歩いてくるアリッサちゃん。
そして、同じようにノーモーションで斬りかかってきた。心なしか速度が上がっているような感じがする。徒手戦よりもナイフ戦の方が得意ということか。
高速で迫る白刃をギリギリのところで躱し、同時に繰り出される肘鉄や蹴りをなんとか捌いていく。
防戦一方なのはアリッサちゃんが女の子だから手が出せないというよりも、システマの真髄が合気に似た投げ技にこそあるからだ。こちらから下手に攻撃すれば、途端に宙を舞うことになる。
微かに反撃出来るような隙を見せているところからも、アリッサちゃんが投げを狙っていることが伺える。そんな状態で攻撃なんか出来るわけがない。
「困ったねぇ……。あーあー、こちらヘルメス。聞こえてるかい? ミス・セレナーデ」
弾丸のようなアリッサちゃんの攻撃を躱しながらインカムに向かって話しかけると、すぐに反応があった。
だが、声の主は少し不機嫌な様子だ。
「前々から言いたかったんですが、その安直なネーミングはやめてもらえますか?」
「あ、嫌だったんだ。……それはそうと聞きたいことがあるんだけどさ、怪盗の通常業務に近接戦闘ってあると思う?」
「……まぁ、そういう場面はあるとは思いますよ」
「やっぱり?」
「結局彼女に追い込まれたんですか。その前に、空へ逃げればよかったじゃないですか」
「それがさ、最初に投げられた時にワイヤー手放しちゃったんだよね。自動操縦になってるから、後で回収してもらえるかな?」
「わかりました。こちらは問題なく終わりましたので、私はこのまま帰りますよ」
「ああ、わかった」
「早めに帰ってきてくださいね。あなたと違って、他人の姿でいるのは疲れますから」
「……善処するよ」
そして小夜ちゃんとの通信を切って、目の前に意識を集中する。
話しながらアリッサちゃんの攻撃を捌いていたが、何度かナイフを躱しきれずに服を切ってしまった。
「仕方ない。この怪盗ヘルメス、暫しお相手しよう」
「……!」
アリッサちゃんの繰り出す刺突を躱し、その腕を取りつつ重心をずらす。投げ技に入る前にうまく外されてしまうが、反撃を受けたことによってアリッサちゃんの動きが慎重になる。
その後アリッサちゃんは瞬時に体制を立て直して容赦なくナイフを突き立てて来るが、それを半身で躱してカウンターの如く額へ指突を繰り出した。
「つあっ……ああっ!」
「およっ?」
脳へ直接衝撃が加わったはずだが、アリッサちゃんは僅かに怯んだ程度で持ち堪えた。
速くて強いだけではなく、頑丈さも備えているらしい。今ので倒れないとなると、私の打撃技ではなかなか倒せそうにはない。
何事もスマートに済ませてきた怪盗ヘルメスが、こんな所で、しかも二十歳そこらの小娘に足止めをされているとは、屈辱以外の何物でもない。
私は少々、人間を侮っていたようだ。
戦うことが本業でないとはいえ、この若さで私をここまで追いつめる者がいるとは。言い訳にもならないが、私もここ数十年はろくに体を動かしていなかったからな。以後、感覚だけは磨いておくことにしよう。
「……ふっ!」
「なんのっ、てりゃっ!」
「つっ!? ……っ!」
「おぅわっ!」
人を刺すことに全く抵抗を持たないアリッサちゃんに恐怖を覚えつつ、彼女に大きな隙が出来るのを待つ。どうにかして流れを変えなければ勝機は見えてこないだろう。
何か外的要因を利用出来れば……。
そう思わざるを得ない程にアリッサちゃんは強かった。
ナイフを手にしても、攻撃がナイフ一辺倒にならないことが動きを読みづらくさせる。それに、よほど鍛えているのだろう。息切れを起こす気配が全くない。
私も仕事をする以上は身体をそれなりに作り変えてきたつもりだが、それと同等かそれ以上に自力で鍛えているアリッサちゃんには感服してしまう。
「ふっっ!」
「ぅおりゃっ!」
アリッサちゃんの上段蹴りに合わせて私も上段蹴りを放つ。
脚の先にかなりの衝撃がかかるが、力任せに振り切る。体重の差か、パワーでは私の方に分があるようで、ようやくアリッサちゃんの身体がぐらついた。
「よしっ」
「……っ!」
「ん?」
不自然な感じに間合いが離れたと思った瞬間、アリッサちゃんの握っていたスペツナズナイフが飛んでくる。スペツナズナイフの柄の中には強力なスプリングが仕込まれており、射出されたナイフの速さは投げナイフの比ではない。
一直線に胸元へ飛んでくるそれを避けきることが出来ず、左肩にナイフが突き刺さる。
「づぁっ……つっ!」
温かさと共に血が滲み出してくるのが見える。
ナイフの刀身が完全に刺さっていた。
とても痛い。
すかさず詰め寄って来るアリッサちゃんの瞳には、勝利を確信する光が宿っている。されど一切の気を緩めずに私を見据えているのは大したものだ。
そして、あと数歩で私に手が届くという瞬間、アリッサちゃんの足下から大量の煙が吹き出して視界を奪った。
「つっ!」
完全に想定外の事態にアリッサちゃんの足が止まり、その姿が見えなくなる。
それも一瞬のこと。彼女はすぐに煙の中から飛び出してきた。だが、その一瞬こそが戦いの世界を支配しているのだ。ここに来て人生経験という名の、私の圧倒的に優位な要素が介入する瞬間が生まれた。
「残念だったね。おやすみ、アリッサちゃん」
「……ぁ……ぁ……」
既に彼女の背後に回っていた私は、その無防備な首筋に腕を回してキュッと絞めた。そして数秒と経たないうちにアリッサちゃんの身体が崩れ落ちていく。
動かなくなったアリッサちゃんをゆっくりと屋根の上に寝かせて手を離す。
その寝顔は年端もいかぬ少女のようで、先程までの荒熊のよう姿は想像もつかなかった。




