8-3
それから三十分も経たないうちに変化は現れた。
空を見るとオレンジ色の陽光が雲の隙間から漏れて光線状に降り注いでいる。
大抵は地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方に見られる現象だ。
その現象の名を〝天使の梯子〟という。
またの名をレンブラント光線。
つまり、怪盗ヘルメスはこのレンブラントの名を冠した現象、ひいてはここに飾られた絵を象徴するかのように姿を現そうとしているのだ。
「……来たぞ」
俺はガラス戸を開きバルコニーへと出る。
前方の空には飛行船が浮かび、こちらへと向かってくる。そしてその真下には、ワイヤーを垂らして宙に浮いた人影があった。
レンブラント光線を後光のように受け、まるで空から光の梯子を伝って降りてくるように見える。
「……ったく、なんというむかつく演出だ。あれか? 俺の方が悪役なのか?」
どんどん迫ってくるヘルメス。
すぐに目が合う程の距離までやってくる。
「あれが、怪盗ヘルメスか」
絹谷も近くに寄って空を見上げている。彼は自らの絵を盗みに来た者だということを忘れてヘルメスを魅入っていた。
だが、それも無理はない。
空から降りてくるヘルメスの姿はあまりにも異様で、あまりにも美しかった。
漆黒のスーツに純白のコートという出で立ちの、緋色の長髪をなびかせた西洋的な顔付きの若々しい青年。
その赤と白と黒の風貌が、見る人を幻想の世界に引きずり込んでしまうような、得体の知れないイメージを与えてくる。
いや、既に俺たちは夢の中に迷い込んでしまったのではないだろうか。
そう思わずにはいられない。
「……んなわけねーだろっ。なんだありゃ、悪趣味すぎだ」
それは前に対峙した時よりも更に派手なヘルメスだった。俺の知るマスターとはあまりにもかけ離れた容姿に呆れ果てる。
同時に一体いくつの姿を持つのかと悪寒が走る。
空にかかった梯子を渡りきったヘルメスは、バルコニーの手すりに立つとうやうやしく一礼した。
「ごきげんよう諸君。どうやら私の予告状は解けたようだね」
遠く透き通るような声。
これが本当にあのマスターなのかわからなくなる。
「うるせー、なんだその格好は。ふざけてんのか」
「そんなことを気にするなんて器が小さいぞ、槇静馬。そしてなにより詰めが甘い。この勝負はおまえの負けだ」
「はっ、負けはおまえだっ。行けっ、アリッサ!」
その言葉と同時に俺の脇を突風が駆け抜ける。
物陰から突然現れたアリッサは瞬きをする間もなくヘルメスに肉薄した。
「うおっ」
「なっ……!」
不意を突かれたヘルメスは、とっさに後ろに跳んでバルコニーから離れる。そしてワイヤーを巻いて空へと上っていった。
「……逃げた?」
そう思ったのもつかの間、頭上で何かがぶつかる音がした。どうやら屋敷の屋根の上に降り立ったらしい。
「はっはっはっはっ。残念だったな、槇。そして絹谷翁、予告通り確かに『ガリラヤの海の嵐』を頂いた」
高笑いと共に聞こえてくるヘルメスの言葉。
その中に奇妙な台詞が混じっている。
『ガリラヤの海の嵐』を頂いた? ほんの僅かな時間、バルコニーに立っただけで?
そう半信半疑に振り返ると、暖炉の上に飾られていた絵がいつの間にか別の絵にすり替わっていた。
キリストを描いたという海の絵が、怪盗ヘルメスの自画像へ……。
「なっ……なんじゃこりゃ」
「そんな、馬鹿な……」
俺も絹谷も呆気にとられる。ヘルメスが現れたほんの僅かな時間目を離した隙に、誰かが絵をすり替えたとでも言うのか?
ドアを開けたような音もしなかったし、なにより額縁は変わっていない。
つまり、絵だけが一瞬で変わってしまったのだ。
「わけわからん……」
「………」
ふと絹谷の方を見ると、驚きの表情から不敵な笑みへと変わっていく。
何故か自らの勝利を確信したような笑みだった。
「絹谷さん、どうかしたんですか?」
「ふはははは。ヘルメスめ、まんまと偽物を持っていきおったわ」
「はい?」
「実はここに飾ってたのは贋作だったのだよ。私がこうして見張ってたのが、いい囮になったわ」
突然現れた新事実に頭が混乱する。
だが、その言葉ですり替えの謎の欠片を掴んだような気がした。
「……つまり、絹谷さんは俺たちも騙していたと。協会に依頼したものの、俺たちを信じることが出来ずに、勝手に策を講じたと」
「そうだ。だが、そのおかげで本物は守られたのだ」
「今、本物はどこへ?」
「地下の倉庫だ。今も長沢が見張っているだろう」
なるほど。仕事があるとかで、長沢さんがずっと地下にいたのはそのせいだったのか。
絹谷は初めから俺たちを囮にするつもりだったのだ。
「それで、その贋作はいつ手に入れたんです?」
「怪盗セルリアが予告状を出してすぐだ。その時はこんなことになるとは、微塵も思わなかったがな」
「それを手に入れたのは長沢さんですか?」
「ああ」
絹谷は自慢げに頷く。
確かに良く出来た贋作だろう。俺は写真と見比べた時にも全く疑わなかった。
だが、そんなものを描ける人間を俺は知っている。
「はは……はははは……やられた。俺の負けだ。あぁ……そうか、だからこの文は……。なるほどなぁ……」
「なにを言ってるんだね? 紛いなりにも絵は守られたのだ」
「盗まれましたよ、本物」
「なに?」
「その優秀な秘書さんは偽物だったんですよ。今頃は本物の絵と一緒にドライブ中です」
あれは小夜ちゃんだったのか。一週間近く絹谷と共にいて気づかれないとは、大した演技力だ。
感心するよ。
そして俺の最大の誤算は、あいつが入念に準備をしていたということだ。
俺はてっきり紬ちゃんが予告を出したことを知ってから、準備を始めたのだと思ってしまった。だから、今回は贋作を用意している余裕はないと踏んでいた。
それが蓋を開けてみれば、小夜ちゃんは長沢を演じるだけの観察をしていて、マスターは贋作を描いていたというわけだ。
海の絵が一瞬でヘルメスの自画像に変わったのも、初めから細工をしてあったのなら容易いことだろう。俺にはそのトリックを解き明かせる気はしないが。
「結局、俺たちはあいつの手のひらの上で踊ってたわけですよ。今回は予告状そのものがブラフだったんです。ヘルメスがわざと目立つ登場をして、その影でまんまと絵を盗み出した。それがあいつのシナリオです」
「……そうか。やはり、どう足掻いたところで守りきれるものではなかったか」
「意外とショックじゃなさそうですね」
「そこらのこそ泥でなく、かの怪盗ヘルメスであれば言い逃れのしようもあるまい」
「言い逃れ? まぁ、残念ですが元々盗品だったのですから、諦めてもらいます」
「ふむ。そうだな」
そう言う絹谷の表情は心なしか晴々としていた。
対して俺は、もう最悪な気分だが。
「しっかし、ダサいなぁ。思えば梯子のくだりはアホみたいに単純だったからな。それがミスリードだと気づけなかったほうが悪いか……」
あれだけ余裕をこいていただけにショックが大きい。
見事なまで大敗だ。ヘルメスも既に逃げ去ってしまっただろう。
俺の出番はこれで終わりだろうし、もう帰ろうかな……。
「……あれ? そういえば、アリッサは?」




