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土下座の姿勢のままうなだれる槇を営業の邪魔だなぁと思っていると、それを退ける間もなくドアが開いて客が入ってくる。
「……なんなのかしら、これは」
やって来たのは紬ちゃんだった。
紬ちゃんは槇を珍種の動物を見るような目で見ている。個人的な意見としても、そのまま動物園の檻の中に入れてしまいたい。
それに、飼育員の人に世話してもらえるのなら、探偵をしているよりかは裕福な生活が出来そうだ。
「いらっしゃい。これは気にしないでくれ」
「そう。新しいパフォーマンスかと思ったわ」
そう言いながらカウンター席に座る。
私の正面が彼女の指定席になりつつあった。
そして槇はサイトを閉鎖するために事務所へと戻っていった。
影のある背中がなんともいえない。
その後すぐに小夜ちゃんがおしぼりとお冷やを用意してくれるが、紬ちゃんの側に置くその一瞬、二人の視線が交差して張り詰めた空気が流れる。
毎度のことながら私の気まで重くなる。
互いの正体を知っているからか、小夜ちゃんと紬ちゃんの仲はよろしくないようだ。
同じ年頃の女性同士、譲れないものでもあるのだろうか。
「今日のおすすめは?」
「んー。今日はベーシックにブレンドかな。それでいい?」
「ええ、もちろん」
紬ちゃんはいつも私にコーヒーのチョイスを委ねてくる。
おそらくコーヒーそのものに興味はないのだろう。
「ねぇ、マスター。明日は暇かしら?」
「え? ……まぁ、定休日だしね」
「そう。ところで、〝ギャラリー ユーカラ〟って知ってる?」
「花柳美術館の近くにある、ちょっと大きめのギャラリーだろ?」
ちなみに、花柳美術館のクールベ展は無事会期を終え、作品は次の会場であるドイツへと運ばれていった。
もちろん私が盗んだ『オルナンの埋葬』も一緒だ。
「そのユーカラで樂吉左衛門の個展がやってるのだけど、一緒にどうかしら?」
「樂って、十五代?」
「そうよ」
「それは是非見に行きたいなぁ! 実は彼のことは、十五代目を襲名した時から気になってたんだよっ」
樂吉左衛門というのは、安土桃山時代から続く樂家の当主が代々受け継いできた名だ。
その樂家では主に楽茶碗という茶陶を作っているのだが、代々個性溢れる作品を作ってきたのだ。
また、初代の長次郞は千利休と深い縁がある男だ。樂家というのも、豊臣秀吉が聚楽第から〝樂〟の一字を与えたことから始まる。
その樂家の十五代目、樂吉左衛門の個展ともなれば行かざるをえないだろう。
「いやぁ、楽しみだなぁ! まさかこんな近くでやってるとは」
「……なら、明日はデートってことでいいかしら?」
「ああ。誘ってくれてありがとう。危うく見逃すところだったよ」
「……っ!?」
私は樂家には随分前から入れ込んでいて、十四代樂吉左衛門、覚入の楽茶碗を持っていたりもする。十五代の作品はまだ美術館でしか見ていなくて、なかなか買えずにいる。
だが、今回のは個展だ。つまり、販売もしてるということだ。
「もう全部売れちゃったかなぁ。いいのが残ってるといいんだけど……」
「……あなたって人は……」
「ん? どうしたの、小夜ちゃん」
「まったく、あなたはっ! 学習能力の欠片もないんですかっ!」
「ひぃっ!」
「ついこの間、身の丈に合わない買い物をしたばかりでしょうがっ! それを三歩歩けば忘れる鶏みたいに、今度は楽茶碗? ふざけるのも大概にしなさいっ!」
「はいぃっ!」
怖すぎるよ小夜ちゃんっ!
どうしちゃったの、いきなりっ!
「自分の財布の中身くらい、考えられないんですかっ!」
「すみませんっ」
小夜ちゃんの鬼のような形相に、底知れぬ恐怖を覚える。
こんな怒り方をされたのは初めてのことで、どうしたらいいのかわからない。もしかしたら、棒倒しの最後の一掻きをしてしまったのは私の方だったのか。
「………」
さすがに紬ちゃんも、小夜ちゃんの急変に唖然としている。
我が麗しの女神は阿修羅の如き鬼神と化してしまった。
元の女神に戻す術はあるのだろうか……。
「大体、あなたは危機管理能力に欠けすぎです! こんな怪しい女にホイホイついていくなんて、お菓子に吊られた子供ですかあなたはっ!」
「うぐっ……」
「あら、それは聞き捨てならないわね。たかがデートでめくじらを立てるなんて、あなたの器量が狭いだけではないかしら?」
「なっ……!?」
その瞬間、見えない何かに引火したような気がした。
それは間違いなく私の身を焼くものだろう。
やはり、私が悪いのだろうか……。
「誰がめくじらなんか立ててますかっ! あなたがマスターを誘惑することに、私は一切の感情を持ちませんが、それでこの人が暴走するのなら話は別です。私はこの人に首輪を付けておく責任があるのでっ!」
「それって、男を縛り付けておきたいってことかしら? 見掛けによらず悪女なのね」
「どう解釈したらそうなるんですかっ! 私はただ、この人の常識のなさをカバーしてるだけですっ!」
酷い言われようだが、全て事実なので口出しをすることも出来ない。
小夜ちゃんがテーブルを叩く度に、コーヒーカップがカチャリと揺れる。
このままでは怒りのボルテージが上がり続けて、小夜ちゃんが小夜ちゃんでなくなってしまうかもしれない。
〝局地殲滅型香月小夜〟とか〝無差別破壊型香月小夜〟とか、危険な香り漂う感じのものに変身してしまったらどうしよう。
恐ろしすぎる。
そして最初の被害者は間違いなく私なのだ。
「私の言ってること間違ってますかっ!? マスター?」
「いやっ、仰るとおりです……よ?」
「なら自分の計画性のなさを少しは悔い改めなさいっ!」
「はいっ!」
いっこうに収まる気配のない小夜ちゃんの怒り。
瞳の奥が今まで蓄積されていた私への不満を燃料に激しく燃え続けている。
それをどうにか消す方法はないかと考えていると、不意に来客を告げるカウベルが店内に鳴り響く。
「いらっしゃいませー」
その瞬間、あれだけの怒りを発していた小夜ちゃんが、いつもと変わらぬ営業スマイルに戻った。
「ええぇっ!?」
「……はいぃ!?」
私も紬ちゃんも、目の前で起きたことが信じられない。
今にも火を吐きそうだった小夜ちゃんはどこかへと消え去り、いつもの清楚で可憐な小夜ちゃんが立っている。
まさか……これが、真のウェイトレスというものか!
なんという熟練度!
今ここにサービス業の頂点として、香月小夜の名が永遠に刻まれるに違いないっ!
「……小夜ちゃん、サイト消したよ」
「あ、槇さんでしたか」
ドアの前には槇が虚ろな表情をして立っていた。
なんだか、この僅かな時間に少し痩せた気がする。ただでさえひょろい身体が、今ではナナフシのようだ。
「それじゃ……次は金を下ろしてくるんで。これで失礼するよ……」
そう言って槇は店を出て行った。
後にはなんとも言えない静けさだけが残る。
だが、槇のおかげで小夜ちゃんはいくらかクールダウンしたようだ。
ありがとう、槇。
おまえの死は無駄にはしないさ。