5.母の想い
い、痛い。完全に油断していた。
母よなぜ公爵と叫びながら私にタックルをかますのか。文句を言おうとするが豊満なバストに顔が埋まり声が出せない。
「今日の競りはメフィストが落とすはずでした。この娘が公爵様の愛人などと……この娘が不幸になる未来しか想像できません!このように美しい愛人は妻に苛まれるのが世の常にございます!どうかご辞退願えませんか?」
メフィストが競り落とす?一体どういうことなのか……口を開きたいがまだ自分の顔は母の肉に埋まっている。呼吸が苦しくなってきた。
「知っている。君たちには申し訳ないが利用させてもらった」
「な!?ご存知でしたのに横入りしたと仰るのですか!?」
「ああ。私には彼女が必要なんだ」
当事者であるはずの自分だけが理解できない会話が交わされる。視界が塞がれ見えないが声から母の焦りと余裕のある公爵の様子が容易に想像でき、なんだか頭が怒りでクラクラしてくる。
いや、違うか。このクラクラは窒息寸前のクラクラだ。
渾身の力で思いっきり両腕を伸ばし母の身体を押しのける。ぷはあと思いっきり息を吸い込めば勢いが良すぎたのか咳込んでしまう。
慌てて母が背中を擦ってくれるがなかなか止まらない。目の前に水が差し出される。視線を上げ手の主を見れば公爵のお付きの男性だった。ありがたく思いながら受け取り喉を潤すとやっと止まる咳。
「ありがとうございます」
お礼を言えばニコリと柔和な笑みが浮かぶ。主人とはまた別系統の優しげなイケメンだ。見ているだけで癒やされる感じだ。
咳も止まったし、イケメンさんのお陰で気持ちも落ちついてきた。
母の手を取り自らの手で包み込む。真っ直ぐに見つめれば同じエメラルドグリーン色の瞳が真っ直ぐ見つめ返してくる。
「一体どういうことなの?私はメフィストで働くことが決まっていたの?」
「そうよ。メフィストであれば客の質も良いし、あなたを幼き頃から見守ってきたお客さんや姐さんたちもいる。借金を背負わせれば皆にイジメられないでしょ?この街に骨を埋める覚悟のあなたにはメフィストが一番いいと思ったのよ」
「で、でも貴族の愛人とか……」
「それはただ言っただけよ。心も身体も交わしていない女に十億以上の金を積む変な貴族がいるなんて思わなかったのよ!」
戸惑う視線を向ければ優しい包み込むような視線が返ってきた。いつの間にか包んでいたはずの母の手に自らの手が包みこまれ優しく撫でられていた。
「じゃあ娼館をやるっていうのも?」
「いや、あれは本当。あなたを売ったお金で運営していくのも本当。それはそれ、これはこれよぉ。せっかくのお金は運用しなきゃ。それにしても20億だって……心揺れる額よね。そう思わない?」
知るか!
感動を返してほしい。母の手から自分の手を引っこ抜く。
「話は終わったか?」
ここにも全然空気を読まない男が一人いたのだった。母と話をしている間も律儀に立ったままこちらを見つめていたレオン。
「生憎手元に20億ないので今持ってこさせている」
その言葉に公爵を睨み付けていたキャサリン含めレイチェルも館主もぎょっとする。金持ちだ。本物の大金持ちだ。
「金が届き次第競りに関する手続きをし、その後レイチェルにはこれにサインをしてもらう」
そう言って彼は再びソファに腰掛けると懐から一枚の紙を取り出しす…と目の前の応接用のテーブルに置く。
3人はそれは何?とばかりにレオンに構わず覗き込む。
「「「…………は?」」」
その紙が何かを目にした3人は目を見張る。
「冗談でしょ……」
キャサリンが誰に聞かせるわけでもなくぽつりとこぼす。その言葉にレイチェルは自分が見ているものが本物だと理解する。
「これはどういうことですか?」
そんなことを口にしながら驚きすぎると人とは逆に冷静になれるものなのだとレイチェルは笑いそうになる。
「先程から勘違いをしているようだが、私は君に愛人になってほしいとは思っていない」
「でもこれは冗談でしょう?貴族の間では平民をおちょくるジョークでも流行っているのですか?」
レイチェルの視線がちらりと紙に向く。これが本物であるはずがない。
「そんなジョークは流行っていない。私は本気で君を公爵夫人として迎えるつもりだ」
公爵夫人として迎える――その言葉がはっきりとそして淡々とレオンの口から紡がれた途端部屋の空気が凍った。
誰も言葉を発しない中、レオンが首を傾げる。テーブルの上の紙――婚姻届を手に取るとひらひらと揺らす。
「理解できなかったか?レイチェルにはこれにサインしてもらい私の妻になってもらうつもりだ」
何回も言わなくてもわかっている。そこまで頭も耳も悪くない。少し苛つきながら口を開くレイチェル。
「理解できないんじゃなくて理解したくないんですよ公爵様」
「ふむ。だが理解しようがしなかろうが事態は変わらない。ちゃんと理解した上で行動しなければ自分が損をするぞ。まずはそちらに座れ」
御尤もである。
促されテーブルを挟んでレオンの前に置かれたソファにそっと腰掛ける。
そんなことはわかっている。だが平民、しかも競りで得た女を公爵夫人になどと聞いたことがない。そもそも貴族とは何よりも“血”を大切にする。それは高位貴族であればあるほどその血は貴重で大切にするべきだと考えていると思っていたのだが。
いや、心でそんなことを思っていても仕方ない。
ここは普通に聞いてぶっちゃけてもらおう。
深く息を吸いしっかりと息を吐いた後真っ直ぐレオンを見る。レイチェルに視線を向けていたレオンとばちりと目と目があう。
まっすぐに人を見据える人だ。その瞳は色っぽく力強く心掻き乱される女性はたくさんいるだろう。はてさてどんな相手だろうと思いのままなはずの目の前の男にはどんな事情があるのか……。
「皇家や高位貴族、他国の皇族とも縁組してきた誉れ高き家系図を持つハーデス公爵家の若き御当主様?その貴重な家系図になぜ私のような下賤の民を加えようなどとお思いになったのか教えていただけますか?あなた様が本気で私を妻にしたいとお思いならば…………妻に隠し事など致しませんよね?」
小首を傾げれば肩にかかっていた美しい金色の髪の毛がさらりと形良い胸元に落ちる。レオンはほんの少しだけ眉根を寄せて考える様子を見せたあと口を開いた。
「……我が公爵家は良い家柄の者と結びつきすぎた。そして才能もありすぎた。血筋、権力、財力……全てを得過ぎたんだ」
超真面目な顔で自慢されるのがこんなに腹が立つものとは思わなかった。どうせ自慢するなら鼻の穴くらい膨らませてほしい。
「それが……我が公爵家を破滅に追い込まんとしているのだ」
長いまつ毛が切れ長の黒色の瞳に美しく影を作る。
伏し目がちの憂いを帯びた顔は冗談を言っているわけではなさそうだ。レイチェルはふざけているんですか?と出かかった言葉をごくりと飲み込んだ。




