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第9話 冷静に

「魔法陣の描画、完了しました。これより発動フェーズに移行します」


 ロアの声色が、優しく労わるような響きから、職人としての鋭いそれへと一段階変化した。


 クラウディアはコクりと小さく頷き、ギュッと目を閉じる。


(大丈夫……。私の心拍数は正常範囲内。ここは冷静に、持ち帰るデータとして体感を分析するだけです)


「今回選んだフレーバーは『クールミント&ブルーベリー』。冷涼感と知的な甘みを持ち、頭脳をクリアにして、動体視力と集中力を極限まで研ぎ澄ますための特製です」


(なるほど……ペパーミント系の覚醒作用と、ベリーの糖分による脳内物質の分泌促進……極めて論理的です)


「動かないでくださいね。では、行きます――『透徹調律・フロストピアシング』」


「んむッ!?」


 ロアの唇が、クラウディアの震える唇にピタリと隙間なく重なった。


(接触開始。対象の体温、約三十六度五分。粘膜からのインク吸収速度の計算式を構築……私は、冷静にデータを……冷静に、冷静に……)


 しかし、彼女の強固な理性は、次の瞬間に大きく揺さぶられることとなる。


 ロアの滑らかな舌先が、疑り深く強張っていたクラウディアの頑なな舌を優しく撫で回し、解きほぐしていく。


「ん、あ……っ」


(計算より、刺激が……強い……っ。ミントの冷感で、口内の神経が過敏に……っ。だめ、このままでは感覚データが処理しきれな――)


「ちゅる……じゅぷっ、んちゅ……」


 ミントの冷涼感によって口内が極度に過敏になったところへ、喉奥まで届きそうな深いストロークで、ロアの熱が波のように送り込まれてくる。


(あ……計算式が、弾け飛んで……。だめ、頭が、真っ白に……っ)


 警戒心の強かったクラウディアだったが、その精密で奥深くまで貫くディープキスによって、論理武装していた理性を甘い吐息とともに完全に溶かし落とされてしまう。


「ん、ふぁっ……ひゃぁっ……!ロアふぁん……っ」


「じゅるる……ちゅぱっ」


 +++


(な、なんなのよあの声……!?)


 個室ブースの外で待機しているエリスは、耳を疑った。


 普段の冷徹なクラウディアからは想像もつかないような甘い嬌声と、濃厚な水音が漏れ聞こえてきたからだ。


「あのお堅いクラウディアまで……っ!」


 カーテンが閉まっているからこそ、中で二人がどれほど深く絡み合っているのか妄想を膨らませてしまい、エリスは音だけでも激しく嫉妬を募らせてドロドロに曇り続ける。


(あーもう。居ても立っても居られない!)


 心のざわつきが激しくなったエリスは、わざと近くにあった金属製のトレイを床に落とした。


 ガシャンッ!!


「あっ、いけない!手が滑って落としちゃったわー!!」


「……ちゅる……んちゅ、じゅぷ……」


「ロ、ロア!新しいお茶淹れたわよ!あんたの好きな特製のハーブティー!今すぐ飲まないと冷めちゃうんだからねっ!」


「んんっ……もっと……あはぁっ……ロアさんの、奥まで……っ」


(全然聞いてないじゃない!!)


 純粋なバフ行為に没頭するロアと、完全に快感に溺れきったクラウディアには、エリスの妨害工作など微塵も届いていなかった。


 返ってくるのは、より一層激しくなるキスの水音だけである。


「ああっ、もう!ノーラ、リーダーのあんたからも何か言ってやりなさいよ!」


「ふふ……無駄よエリス。今のクラウディアには、世界にロアしか存在していないわ。あの熱に溺れたら、もう誰も彼らを止められないもの」


「あんたも頬染めて思い出し恍惚しないでよぉっ!!」


 誰にも相手にされず、エリスは膝から崩れ落ちて一人で余計に惨めな気持ちになっていた。


 +++


「ふぅ……完璧な定着です。お疲れ様でした、クラウディアさん」


 数分後、カーテンが開かれた。


 額に汗を滲ませたロアに続いて、ブースの中からクラウディアが姿を現す。


「はぁっ……はぁっ……あ……っ」


「クラウディアさん?気分はどうですか?」


 ブースから出てきたクラウディアは、普段の隙のない知的な姿は見る影もなかった。


 彼女のトレードマークである銀縁眼鏡は、急上昇した自身の体温で真っ白に曇り、足元は生まれたての小鹿のようにおぼつかない。


「あ、うぁ……ロアさん……」


 涙目でトロンと蕩けた表情のまま、クラウディアはロアの袖をきゅっと掴んで離そうとしない。


「クラウディアさん、もう終わりましたよ。手を離して、少し休んで……」


「やだ……もっと、ロアさんの……指、触って……。私、計算なんて……もう、どうでもいいです……っ」


「困りましたね。少し魔力酔いしているみたいだ。エリス、お茶をもらえるかな?」


「…………」


 完全に「ポンコツ化」した凄まじいギャップを目の当たりにし、エリスは開いた口が塞がらなかった。


「うそでしょ……あのいつも計算づくしの彼女が完全に蕩けちゃってるじゃない!」


(ノーラだけじゃなく、クラウディアまで……!私のロアが、どんどん他の女を虜にしていく……っ)


 また一人、身内のライバルが陥落してしまった。


 圧倒的な力と引き換えに理性を溶かされた仲間たちを見て、エリスは絶望と終わりのない危機感をさらに深めるのだった。

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