第8話 診察台の緊張
下町バフ屋『魔柄記処エングレイブ店』の朝は、今日も冒険者たちの熱気に包まれていた。
カラン、と心地よいドアベルの音が響き、『白銀の爪痕』の四人が店内へと足を踏み入れる。
「おはよう、ロア。今日は、さらに上級ダンジョンに挑戦するの」
「いらっしゃい、皆さん。ええ、予約されてましたね。お待ちしていましたよ」
カウンター越しに微笑むロアの前に、銀縁眼鏡をかけたアーチャーのクラウディアが一歩進み出た。
その瞳の奥には、これから行われる未知の施術に対する強い警戒心が宿っている。
「ふふ、クラウディア。そんなに全身を強張らせなくても大丈夫よ。ロアの舌は……じゃない、腕は本当に、凄まじいから」
リーダーのノーラが、自身の唇を指先でそっと撫でながら、少し頬を赤らめて意味深な言葉をかけた。
「リーダー。私はあくまで戦力向上のための合理的な判断として受けるだけです。感情には流されません」
クラウディアは眼鏡の位置を直し、冷徹な声でぴしゃりと返す。
「頭では、あの上級ダンジョンを攻略するためにバフが必要不可欠だと理解しています。ですが……このような破廉恥な施術には、強い警戒心を抱かざるを得ないのが事実です」
「強がっていられるのも今のうちよ。あの熱を一度でも味わえば、あなたもきっと……」
「や、やめなさいよノーラ!余計なプレッシャーかけないの!」
たまらず、後ろで控えていたエリスが割って入った。
(ああもう!ノーラがあんな余裕ぶった言い方するから、クラウディアまで変に意識しちゃってるじゃない!ロアの唇はあくまで術式用なんだからねっ!)
エリスは強く握った魔法杖をギリギリと軋ませながら、心の中で激しく叫んだ。
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「では、こちらの個室ブースへどうぞ」
ロアに促され、クラウディアはカーテンの奥へと案内された。
そこにあるのは、革張りの施術専用チェア『傾斜式刻印診察台』だ。
「背もたれは四十五度に倒します。楽に腰掛けてください」
「……はい」
クラウディアは椅子に腰を下ろす。
しかし、全身の筋肉は硬く強張り、まるで尋問を受ける囚人のように身を固くしていた。
「失礼します。少し、体を固定しますね」
ロアが正面に腰掛け、彼女の両太ももを自分の膝で軽く挟み込むような至近距離に位置取る。
(ち、近い……。距離が近すぎます)
クラウディアの心拍数が、微かに跳ね上がる。
(落ち着きなさい、私。理性を総動員して、彼の動きを全て観察し、論理的に分析するのです)
「まずは、インクの調合から始めますね」
ロアは至近距離で、極細の筆と小瓶を取り出し、流れるような所作でインクを混ぜ始めた。
(私は感情には流されない。この心拍数も、粘膜の反応も、完全にコントロールしてみせます)
クラウディアは必死に唾液の分泌を抑えようと試みる。
しかし、目の前で滑らかに動くロアの美しい指先を観察しているうちに、彼女の脳裏に雑念が入り混じり始めた。
(この人は……私の体を、どう思っているの……?ただの、被検体としてしか見ていないの……?)
カチャ、カチャと小瓶の鳴る音が、やけに鮮明に耳に響く。
(だめ、意識しては……。でも、どうしてこんなに、口の中が熱く……)
無意識のうちに口内が潤い始め、彼女の意思とは裏腹に、唇の端からツーツーとよだれが垂れ落ちてしまった。
「……っ!?」
(嘘……私の身体、どうしてしまったの……?)
計算外の自分の身体の反応に、クラウディアは激しい葛藤と戸惑いを覚える。
「唾液の分泌量は完璧ですね。とても良い状態です」
ロアは極めて事務的な声で告げると、吸水クロスで彼女の顎を優しくトントンと拭い取った。
「口を開けて、舌を出してください」
「……ぁ……」
ロアの清潔な素手の指が、クラウディアの顎を下から支え、親指と人差し指でそっと舌を引き出した。
「少し、舌の筋肉が強張っていますね。リラックスしてください」
ロアの滑らかな指が、彼女の口内を優しく撫で、解していく。
「ん、ふ……っ」
(こんなふうに優しく触れられたら……。やっぱりダメ。私なんて、可愛げがないから……)
彼女の脳裏に、苦い過去のトラウマがフラッシュバックする。
『お前は堅苦しくて可愛げがないんだよ』
『いちいち計算ばっかりで融通が利かない。足手まといだ、出て行け』
前のパーティーで、冷徹な物言いと慎重すぎる性格が災いし、落ちこぼれとして追放された苦い記憶。
(どうせ私なんて、ただの堅物のつまらない女……)
「クラウディアさん」
ふと、ロアの真剣な声が降ってきた。
「素晴らしいですね。この僅かな舌の動きや強張り……一見するとただの緊張に見えますが、違います」
「え……?」
「これは、周囲の状況に対する極めて強い警戒心と、緻密な計算の表れです。この筋肉の制御力こそが、あなたのあの精密な射撃を可能にする、素晴らしい集中力の証なんですね」
ロアの琥珀色の瞳には、一切の邪気がなかった。
「あなたのその慎重さと理屈っぽさは、決して欠点なんかじゃない。パーティーの命を繋ぐ、最高の武器です」
「ロア……さん……」
「僕の極上のインクを乗せるのに、これほど相応しい舌はありませんよ」
純粋な技術的視点からの、真っ直ぐな肯定の言葉。
その言葉と、口内を解す優しい指先の温もりによって、クラウディアが長年抱え続けてきた深いコンプレックスが、音を立てて次第に溶かされていく。
「……ぁ……んっ……」
彼女の目から、よだれと共に、一筋の涙がこぼれ落ちた。




