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第7話 指先ケア

 今日も『魔柄記処《まがらきどころ》エングレイブ店』には、朝から途切れることなく女冒険者たちが訪れていた。


「マリアさん、昨晩辛いもの食べましたね?舌が少し荒れてます」


 カウンター越しに、ロアは極めて真面目な顔で女戦士の舌先を指で優しく撫でながら指摘した。


「ひゃんっ……す、すみません、ロア先生……」


「これでは魔導インクの定着率が三パーセント落ちてしまいます。術式を調整しますから、少し舌の力を抜いてください」


「は、はいぃっ……」


「リサさんは少し脱水気味です。もっと唾液を出してもらわないと」


「あっ、んんっ……が、頑張って、出しますぅっ……」


 ロアは完全なバフ行為・技術目線で淡々と舌を観察し、的確な指示を飛ばしていく。


 彼女たちは朝から顔を真っ赤にして腰を浮かせているというのに、ロアは手帳にメモを取るだけで一切の邪気がない。


 彼にとって女性の口内は、あくまで極上の術式を描くための『キャンバス』でしかないのだ。


 その途轍もないギャップに、壁際で控えるエリスは頭を抱えていた。


(ああもう、この店は朝からどうなってるのよ……っ)


 カラン、と軽やかなベルの音が鳴り、冒険者たちとは違う足音が店内へ入ってきた。


「ロア君、新しいミントと甘いベリーが入ったよ〜」


 のんびりとした間延びした声と共に現れたのは、下町の老舗生薬問屋『アロエ堂』の跡取り娘、リーセルだった。


 彼女はおっとりとした三つ編みおさげ髪にエプロン姿で、常に爽やかなハーブの香りを漂わせている。


「リーセル!待っていたよ。さっそく見せてくれないか」


 ロアは目を輝かせ、すぐさまリーセルの手元にある籠を覗き込んだ。


「うん、これね。とってもいい香りだよ〜。インクの材料にぴったりだと思うな」


「本当だ、素晴らしい品質だね。……いい香りだ、舌に乗せた時の刺激を試させて」


 言うが早いか、ロアは籠から摘み取ったベリーをインク材料と混ぜて、リーセルの口元へと直接運んだ。


「あーん」


「んっ……甘酸っぱくて、美味しい〜」


「どうだい?ピリッとした魔力刺激はある?」


「ううん、とっても優しい味だよ、ロア君」


 リーセルは無邪気に笑い、ロアの指先をそっと両手で包み込むようにして味を確かめている。


(なっ……な、ななな……っ!?)


 エリスの顔が引き攣った。


 女冒険者たちへの体内刻印(舌バフ)は、「戦いで生き残るための術式」という大義名分がある。しかし、冒険者ではないリーセルとのやり取りは、純粋な職人同士のナチュラルな距離の近さだ。


「ロア君の指、いつも綺麗だねぇ」


「繊細な筆を扱うからね。それに、君が納品してくれる口ゆすぎ薬のおかげで、口内環境も整えられているよ」


(なんで戦うわけでもないリーセルにまでそんなことしてるのよ!日常の空間まで奪われちゃうじゃない!)


 エリスにとって、リーセルは別ベクトルの強敵であり、彼女の存在はエリスの心をドロドロに曇らせる新たな原因となっていた。


 +++


 午後に入ると、ロアはカウンター奥の「カーテン付きの個室ブース」で施術を本格化させた。


「顎を上げて、力を抜いてください」


「ん、ふ……っ」


 カーテンのおかげで直接的な姿は見えないものの、ブース内からは微かな衣擦れと、生々しい音が漏れ聞こえてくる。


「ちゅぷ……じゅるる……」


 静寂の中に響く、水気が泡立つような濃厚な音。


「ひゃぁっ……!ロア、先生……っ、だめぇ……」


「もう少しです。舌を逃がさないでください」


(いっそ見えた方がマシよ……っ!音だけなんて、余計に変な想像しちゃうじゃない!)


 外で待機しているエリスは、耳を塞ごうとしても隙間から入り込んでくるその音に悶え苦しんでいた。


 カーテンの向こう側で大好きなロアが他の女と濃厚な口づけを交わしている光景を克明に幻視してしまい、音だけでも激しく嫉妬を募らせる。


 ギリギリと奥歯を噛み締め、膝を抱えてうずくまるエリスのメンタルは、今日も凄まじい勢いで削られ続けていく。


 +++


 夜。


 怒涛の一日が終わり、バフ屋の看板が下ろされた。


 静まり返った店内には、微かな香草の匂いと、ランプの温かい灯りだけが満ちている。


「ロア、お疲れ様。いつものお茶、淹れたわよ」


 エリスは湯気を立てるティーカップを、作業机に向かうロアの横へそっと置いた。


 それは、彼女がロアのためだけに特別にブレンドした特製ハーブティーだ。


「ありがとう、エリス。……ふぅ」


 ロアは手帳に書き込んでいたペンを置き、カップを両手で包み込んで一口飲んだ。


「あぁ、やっぱりエリスの淹れるお茶が一番落ち着くよ。君が傍にいてくれて助かる」


 疲労が滲む顔に、ふわりと柔らかい笑みが浮かぶ。


 その無自覚で心からの言葉に、エリスの心臓は大きく跳ねた。


「しょ、しょうがないわね!あんたは放っておいたら寝食も忘れて研究ばっかりするんだから!」


 昼間はあんなにドロドロに曇っていたというのに、ロアからのストレートな感謝の一言で、エリスの頬はあっという間に真っ赤に染まってしまう。


(私のお茶が一番……。私が、傍にいてくれて助かるって……っ)


 その言葉だけで、一日の苦労と嫉妬が嘘のように浄化されていくのを感じる。


「そうだ、エリス。ちょうど新しいインクの調合をしていたんだ。少し、魔力濃度の確認を頼めないかな?」


「えっ……いいわよ」


 エリスの特技は、インクの味見による魔力濃度の判別だ。


 ロアはエリスの手を取ると、彼女の手の甲に、先ほど調合したばかりの深い紫色のインクを一滴垂らした。


 エリスは自分の手に垂らされたインクを、そっと舌先で舐め取った。


「……んっ。少し、陰の魔力が強いわ。これだと定着する前に揮発しちゃうかも」


「なるほど、やっぱりそうか。君の舌は本当に正確だね」


 ロアは感心したように頷き、自然な動作でエリスの手を握り直す。


 彼の手の温もりが伝わってくるたび、エリスの頭の中に、昼間のカーテン越しの光景がフラッシュバックした。


(このインクを、ロアは直接……舌と舌を絡めて、相手の口の中に流し込んでるんだ……)


 キスを想像してしまい、エリスの心臓が爆発しそうなほどの早鐘を打つ。


 今、ロアの指先が自分の唇に触れたらどうなってしまうのだろう。


(私も、舌に直接描いてもらえば……ロアと、キスできるのに……っ)


 恥ずかしさから頑なに舌バフを断っているのは自分自身のくせに、どうしようもない自業自得感に苛まれるエリス。


 しかし同時に、他の客には絶対にさせない「味見」という特別な役割を自分にだけ頼んでくるロアからの、無自覚な特別扱いがたまらなく嬉しかった。


「ロア、手……貸して」


「ん?どうしたの?」


「今日一日、ずっと筆を握って……それに、色んな人の口の中を触ってたでしょ。荒れちゃうわ」


 エリスは自身のポケットから、お手製のハンドクリームを取り出した。


 ロアの滑らかに手入れされた指先をそっと両手で包み込み、丁寧にクリームを塗り込んでいく。


(他の女の唾液をいっぱい絡めとった指……。本当に、腹が立つけど……)


 指の腹から爪の先まで、エリスは祈るように優しくマッサージを施す。


(でも、この綺麗で繊細な手を一番近くでケアできるのは、私だけなんだから……)


「エリスの手は、温かくて気持ちいいな。疲れが取れるよ」


 ロアが心地よさそうに目を細める。


 その無防備な顔を見つめながら、エリスは愛しさと切なさの間で激しく揺れ動く。


 いつか、この指が自分の唇を、そして舌を撫でてくれる日は来るのだろうか。


 静かな夜の店内で、エリスのロアに対する片思いは、甘く、そして苦しく募っていくのだった。

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