11. 婚約解消
春が訪れた頃、学園の中で一つの噂が広まり始めた。
ソルネスとクルシアの関係についての噂だった。
以前から囁かれていたことではあったが、冬の間に二人が何度かこっそり会っていたらしいという話が広まってしまった。
場所は学園の外や休日にという話だった。
噂を聞いた多くの生徒は、リセリアのことを心配した。
そんな中、リセリアは冷静だった。
ある朝、ヴィーナがリセリアに言った。
「リセリア様、ルトラルト様とビルドナ様との噂のこと、聞きましたか?」
「ええ、聞きました」
「辛くはありませんか?」
「彼に対しては特別な感情はないですから、辛いというのはありません。だた、周りに気をつかわれて説明するのは疲れますね。皆様が心配してくれるのは有難いんですけど、その度に自分が傷ついていないことを証明しなければならない気がして……」
ヴィーナは少し考えた。
「ごめんなさい。私も余計なことを聞いてしまったようで……」
「いえ、友人であるヴィーナ様が心配してくれているのは分かりますから」
リセリアは困った顔をした。
二人は別の話に切り替えて、しばらく談笑していた。
事が起きたのは、春も半ばを過ぎた頃だった。
その日の午後、リセリアはジェシカとヴィーナと共に学園の中庭にいた。
中庭には石造りのベンチが並び、春の花が咲いていた。
三人は課題について話し合っていた。
ジェシカが歴史の課題で手こずっていて、リセリアとヴィーナが手伝っていた。
そこへ、ソルネスがやってきた。
ジェシカが「あ」と小声で言った。
ソルネスはリセリアの前に立った。
その顔は何かを決めてきた人間の顔だった。
「リセリア、話がある」
「はい」
「二人で話せるか」
リセリアはジェシカとヴィーナを見た。
二人はどちらも何も言わなかったが、視線で「行って」と言っていた。
リセリアはソルネスと共に中庭の端へ移動した。
ソルネスは少し間を置いてから話し始めた。
「単刀直入に言う」
「はい」
「婚約を解消したい」
リセリアは表情を変えなかったが、胸の奥で何かが静かに動いた。
「一応、理由を聞かせてもらえますか」
「お前も気づいていたんだろう? 俺はクルシアを好きだ。お前のことが嫌いなわけではない。だがお前への気持ちは、それではない。このまま続けることは、お互いのためにならない」
「そうですね」
「怒らないのか?」
「怒る必要がありますか?」
「普通は怒るものだろう。あるいは泣いたり……。でも、お前は……」
リセリアは苦笑した。
「ソルネス様が正直に話して下さったことをむしろ感謝しています」
ソルネスは少し戸惑った顔をした。
「なぜだ?」
「ソルネス様が動かなければ、形式だけの婚約関係を続けることになっていました。それは、お互いにとって良いことではありません」
「……お前は、本当に変わった女性だな」
「よく言われますね」
「……婚約者の務めを全うできず、すまなかった……」
「謝罪は受け取ります」
「それに……私もお伝えしなければなりません」
「なんだ?」
「私もお慕いしている別の方がいるのです」
ソルネスは目を見開き驚いた。
「……そうだったのか……それは誰なのか聞いてもいいか?」
「申し訳ありません。どなたかは言えないのです……」
「もしかして二人で会っていたりするのか?」
「いえ、そういったことはしていないです」
「……そうか」
ソルネスはそれ以上、聞かなかった。
「婚約解消の手続きは、家同士で行う。お前の父上には、俺の父から話を通す」
「分かりました」
「お前には……迷惑をかけた」
「いえ、ソルネス様は私に対しては最初から壁を作っていましたね。ですが最近、その壁が少し変わりました。もし最初からそうであれば、少しは良い友人になれたかもしれないと思っています」
ソルネスはその言葉を受けて、少し表情が揺れた。
「……そうだな」
「ビルドナ様を大切にして下さい」
リセリアはそれだけ言って、「失礼します」と歩き出した。
中庭に戻るとジェシカとヴィーナが心配そうな顔で待っていた。
リセリアの表情を見て、ジェシカが「……大丈夫ですか?」と小声で聞いた。
「大丈夫です」
「何の話だったのですか?」
「婚約解消の話ですね」
ジェシカの目が大きくなった。
ヴィーナも息を飲んだ。
「……ルトラルト様が?」
「はい」
「それって、リセリア様があんまりではありませんか……」
「いえ……むしろ、ほっとしています」
「ええ?!」
「形だけの婚約関係を続けることの方が、お互いにとって良くないと思っていました。それが終わるというなら、これで良かったのです」
ジェシカは、それ以上は何も言わなかった。
ヴィーナが「リセリア様がそれでいいのなら」と言った。
リセリアはこれで、悩みごとの一つがなくあると安堵した。
婚約解消の話が正式に両家の間で進んだのは、その翌週のことだった。
ルトラルト侯爵家からシャステリーゼ伯爵家へ正式な通達が来た。
リセリアの父ハインはその知らせを受けて、休日に娘を呼んだ。
週末に帰省したリセリアを両親が迎えた。
母ルティアは玄関でリセリアを抱きしめた。
いつも通りの全身で喜びを表す抱擁だった。
しかし今日は少し、その腕に力が込もっていた。
「リセリア、ごめんなさいね」
「お母様、謝らなくていいです」
「でも……あなたに今回の婚約の事で辛い思いをさせてしまったわ」
「本当に大丈夫ですよ」
母は少し泣いていた。
リセリアはその涙を見て、改めて母親の愛情を感じた。
書斎で父と向き合った時、父の表情は珍しく苦しそうだった。
父は普段、感情を表に出さない人だった。
それが今日は、表情の奥に何かが滲み出ていた。
「リセリア」
「はい、お父様」
「今回のことは……お前には申し訳なかった」
リセリアは首を振った。
「お父様のせいではありません」
「あちらからの申し出の上での婚約だった。相手の家の方が格上だった事と家の事情で断ることができなかった。申し訳なく思う」
「お父様……」
「今回、あちらの事情ではあるが婚約解消という形を取ることになった」
リセリアは父の言葉を静かに受け取った。
「お父様が、いつも私のことを考えて下さっていることは分かっています」
「リセリア……」
「本当に、大丈夫ですよ。私は傷ついていません。ただ、お父様が苦しんでいることの方が私には辛いです」
父は少し目を細めた。
その目が潤んでいた。
リセリアは父の涙を初めて見た。
それを見て、リセリアの方が泣きそうになった。
「お父様は、いつも私のことを考えてくれています。だからお父様には感謝しています」
父はしばらく黙っていた。
それから「そうか」と小さく言った。
夕食の後、母がリセリアの部屋に来て話をした。
「リセリア、聞きたいことがあるのだけど」
「はい」
「あなた今、誰か好きな人でもいるの?」
リセリアは少し驚いた。
母からそれを聞くのは初めてだった。
「……どうして、そう思うのですか?」
「婚約解消になったのに、あなたが全く動じないんですもの……それに昔から物思いにふけることもあったから、まさかとは思ったのよ」
リセリアは、しばらく考えて正直に答えることにした。
「……実は、お慕いしている方がいます」
母は静かに頷いた。
「どんな方なのかしら?」
「……今は言えません」
「貴族の方なのかしら?」
「それは分かりません……」
「……そう」
「貴族としては失格かもしれないのですが、次の婚約者を決めるのは待ってほしいのです」
「思い人がいるからよね」
「はい」
「……それについては、お父様と相談しましょう」
母はリセリアを抱きしめた。
リセリアは、その腕の中で目を閉じた。
母の温かさが全身に感じ取れた。
その後、家族と話し合いをした。
今は政略的に婚約する必要がないとのことで、今後はリセリアと相談の上で決めようと言ってくれた。
学園に戻り、ジェシカが出迎えてくれた。
「帰省、どうでした?」
「色々ありましたけど、結果的に良かったと思います」
「ご両親は?」
「心配していましたけど、大丈夫です」
「それなら良かったですね」
ジェシカはそれだけ言って、「あちらでヴィーナ様が待っているので行きましょう!」と歩き出した。
リセリアは、その背中を追いながら思った。
こんな時、友人がいることに安心感を覚える。
この世界でも傍にいてくれる人達がいる。
それがどれほど有難いことかリセリアは実感していた。




