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第八十七章 黒い帳簿

ロンドンの空気は、血と金の匂いで満ちていた。

 南海会社の株価は頂点から奈落へ転げ落ち、街は狂気の果てに沈んでいる。

 橋の上では外套をまとった紳士が川へ身を投げ、屋敷の窓からは絹の衣を着た婦人が飛び降りた。

 人々の悲鳴と鐘の音が、灰色の霧を震わせていた。

 エドムンドは石畳を歩きながら、目を閉じた。

 トマスを救わねばならない。だが鍵は、この狂気を仕組んだ者にある。


---


 夜。シティの裏路地に、小さな執務所があった。

 「シーフテイカー」と呼ばれる盗品取締官――裏の情報網を操る者たちの巣窟である。

 霧雨に濡れる港の一角で、エドムンドは薄暗い路地に立っていた。

 石畳を踏む靴音が近づき、シーフテイカーの男が姿を現す。


 「……探してほしい名がある」

 エドムンドは懐から数枚の金貨を取り出し、机の上に置いた。

 「ジョン・ブラント。南海会社の影に潜む男だ」


 男は指先で金貨を弾き、無言で笑った。

 「……南海の株で騒いでる連中の名を探せだと? 俺の首が飛ぶかもしれねえ」


 「無理なら頼まん。だが――君たち以上に街を嗅ぎ回れる者はいない」

 エドムンドの声は低く、揺らぎがなかった。


 「だが、金が重けりゃ話は別だ。数日はかかるが、必ず嗅ぎ出してみせる」

 エドムンドは静かに頷き、手を差し出した。

 「任せる」


 やがて幾日かののち、再び路地で二人は対面した。

 シーフテイカーは紙片を差し出し、短く言った。

 「……見つけたぜ」


 低い声とともに、男は紙片を差し出した。

 ――ブラント、倉庫街に潜伏。


 「港の古い倉庫に潜り込んでいやがった。怯えて外にも出ねえ。間違いねえ」

 エドムンドは紙片を受け取り、指先で折り畳んで懐に収めた。

 「感謝する」


 シーフテイカーは袋の重みを確かめてから、唇を歪めて吐き捨てた。

 「……ブラントなんぞ放っておきゃ勝手に朽ちるってのに、あんたも物好きだな」


 エドムンドは応えず、港の暗がりに目を向けた。

 倉庫群の影が、霧の中に沈んでいる。

 「……捕まえたぞ」

 呟きと共に、彼の足は静かに倉庫街へと向かっていった。


---


 石造りの倉庫の奥。

 蝋燭の明かりに浮かぶ肥えた男の顔。

 ジョン・ブラントは額に汗を浮かべ、黒く分厚い革表紙の帳簿を抱えていた。


 「もう終わりだ……」

 震える声で呟いたその瞬間、扉を押し開けたエドムンドが進み出た。

 「それを渡せ」


 「……誰だ、お前は」

 闇の中に、やつれた男の姿。ジョン・ブラント。

 その眼は血走り、怯えと虚勢が交錯していた。


 「エドムンド・ヘイル」

 名を告げた瞬間、ブラントの顔に困惑が走る。

 「知らん名だ……!」

 「だろうな」


 エドムンドは一歩踏み出した。

 「だが私は、街の瓦礫の中で友を失いかけた。お前の会社のせいで」


 「ち、違う! 私は……ロバート・ハーレーが作った仕組みを回しただけだ!」

 ブラントは必死に言い訳を吐き出す。

 「誰も止めなかった! 貴族も、議員も、皆が望んだのだ! お前も得をしていたのだろう? 皆そうだ!」


 エドムンドは冷たい眼で見下ろした。

 「望んだのは繁栄だ。だが、お前が売ったのは幻影だ」


 彼は机の上に積まれた束を掴んだ。黒革に綴じられた帳簿――南海会社の裏の収支。

 「これで十分だ」


 ブラントは膝を崩し、呻いた。

 「……私は悪くない……悪くない……」


 エドムンドは答えず、帳簿を外套に収め、闇へと背を向けた。

 帳簿を奪い取った瞬間、頁からは袖の下の金、裏口座の記録、議員たちの名がずらりと現れた。

 黒の帳簿――これこそが、街を狂わせた証だった。


---


 数日後。ウェストミンスターの政庁。

 厚い扉の奥、控えていたのは一人の男――ロバート・ウォルポール。

 熱烈な弁舌で知られながら、人々からは「誠実」と評される稀有な政治家だった。

 議会の荒波を渡り抜くしたたかさと、人懐っこい笑みを同時に備えている。


 「……君がヘイルか」

 低い声が響いた。

 「ブラントを探し出したと聞いた。だが――その帳簿、本物だと証明できるか?」


 エドムンドは外套から黒の帳簿を取り出し、机の上に置いた。

 「証明するのは容易ではない。だが、中身を見れば分かるはずだ」


 ウォルポールは頁を繰った。目が走り、止まり、眉が動く。

 「……実に詳細だな。だが、これほどの記録をなぜ君が持っている?」


 「答える義務はない。ただ一つ――友を救うためだ」

 エドムンドの声は冷ややかで、揺るぎなかった。


 沈黙の後、ウォルポールは帳簿を閉じ、重く掌を置いた。

 「ヘイル。君は危険なものを渡したのだ。この一冊で議会は割れ、貴族の首が飛ぶだろう」


 「それでも構わん。私が求めるのは、トマス・フィンチの名誉だけだ」


 ウォルポールはしばし凝視した。やがて口元に笑みを刻んだ。

 「なるほど……君は実直だな。私の好きな言葉を知っているか?」


 「……?」

 「王は君臨すれども統治せず。支配するのは民意であり、真実だ」


 熱のこもった声が、静かな部屋を満たした。

 「君が差し出したこの帳簿は、真実だ。ならば私は、民のために使おう」


 エドムンドは深く頷いた。

 「信用していいのだな」

 「無論だ。……ただし、覚えておけ。正義を掲げても、この街は常に別の利を求める」


---


 エドムンドが去ったあと、室内には静寂が戻った。机の上には、黒い帳簿がひとつ残されている。

 ロバート・ウォルポールはそれを見下ろし、しばし無言だった。彼は熱烈な弁舌で知られる一方、「誠実」と呼ばれる稀有な政治家。だがその誠実さは、時に秩序を守るための仮面でもあった。


 「……真実だけでは国は立たぬ」

 独りごちると、帳簿を手に取り暖炉へ歩む。

 炎が革表紙を舐め、紙片が赤く弾ける。記された名も数字も、煙と灰に変わって舞い上がった。


 ウォルポールは炎を見つめながら、静かに微笑んだ。

 「王は君臨すれども統治せず――だが、私が秩序を保たねばならぬ」


 灰となった帳簿は、ロンドンの夜に溶けて消えていった。


---


 その夜遅く、外務卿官邸からの正式な使者が宿を訪れた。

 封蝋を割り、書状を広げると、簡潔ながらも権威ある文言が目に入った。


 > 王国裁可により、トマス・フィンチは本日付けで釈放された。

 > 起訴はすべて無効とされ、名誉は回復されたことをここに通知する。


 読み終えたとき、エドムンドの胸に重くのしかかっていたものが、ようやく解け落ちた。

 彼は夜空を仰いだ。霧の切れ間に、わずかな星が瞬いている。

 「……トマス。もう誰も、お前を縛れはしない」


 その言葉は冷たい風に消えたが、胸の内では確かな炎となって燃え続けていた。

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