第八十六章 影を裂く声
その報せは、朝の霧と共に街を覆った。
――ロバート・ハーレー、死す。
政界の片隅に追いやられていたとはいえ、かつて大蔵卿として国の舵を握った人物。その死は瞬く間にロンドンを駆け巡り、茶屋も酒場も、紙問屋の前も、噂にざわめいた。
「病か」「毒ではないか」「いや自ら……」
声は錯綜し、真実はどこにもない。だが人々の目は落ち着かず、街全体が見えぬ影に取り憑かれたようだった。
エドムンドは馬車の窓越しにそのざわめきを聞きながら、ただひとつの名を胸に反芻していた。
――ジョン・ブラント。
死の直前、ハーレーの口から洩れたその名は、重く冷たく、彼の思考を縛り続けていた。
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外務卿官邸の石造りの階段を上ると、冬の朝の冷気が背を押した。
扉を開けた先、重苦しい沈黙の中で数人の文官が並び立っている。暖炉の炎が揺れていたが、空気は冷え切っていた。
「ポルトガル王室特使、エドムンド・ヘイル閣下」
名を告げられ、儀礼的な礼が交わされる。だがその眼差しには、探るような硬さがあった。
エドムンドは一礼だけで応じ、切り出した。
「私の友、トマス・フィンチを釈放されたし」
一瞬、室内の空気が固まった。
文官の一人が眉を寄せる。
「……トマス・フィンチ? 投機熱を煽った罪人か。風説の流布、外国勢力との通謀――」
「罪人ではない」
エドムンドの声が鋭く割り込んだ。
「彼は狂乱を戒めただけだ。火に油を注いだのではない、火を止めようとしたのだ」
「名もなき市民を“友”と呼び、特使殿は我らの前で求めるか。ここは陛下の法の庭、情に動かされる場所ではありませんぞ」
室内に冷ややかな笑いが漏れる。だが、エドムンドの瞳は揺らがなかった。
「情ではない。理だ」
彼は声を低く落とした。
「彼を罪に問う理由はただ一つ――“熱を冷ませ”と口にしたこと。それを風説と呼ぶなら、ロンドンはもう一度、燃えることになる」
役人たちの表情が一瞬だけ凍った。過去の大火の記憶を突きつけられたのだ。
エドムンドは外套の襞を正し、声を低めた。
「私は事実を告げるだけだ。――テムズ河口には、ポルトガル王室の艦が待機している」
室内に緊張が走った。
「もし友が正義の場に戻らぬなら、その艦は礼砲ではなく、実弾を放つだろう。
我らの金も、物資も、この街を通らぬ。海上の道はすべて閉ざされる。イギリスの誇りも、市場の熱も、燃やし尽くすだろう」
暖炉の薪が爆ぜ、短い火花が飛んだ。
誰もすぐには口を開かなかった。外務卿と呼ばれる壮年の男が、ようやく低く息を吐く。
「……強いお言葉だな、特使殿」
彼は視線を落とし、短く首を振った。
「だが確かに、フィンチの件は調査に値する。ニューゲートに通達を出そう。釈放は――裁可を待て」
エドムンドはわずかに頷き、踵を返した。
廊下に出ると、冷気が肺を刺す。
その痛みの中で彼の胸にはただ一つ、燃えるような言葉があった。
――トマスを、必ず連れ帰る。




