第八十五章 ロンドンの闇
朝の光がまだ宮殿の石壁に届かぬうちに、扉が叩かれた。
黒衣の使者が一通の手紙を携えてきた。
封蝋を割ると、見慣れた筆跡が目に入る――ナフマン。
エドムンドは静かに封を切り、羊皮紙を引き抜いた。
短い文だったが、十分だった。
> ヘイル。
> ロンドンは熱病に侵されている。
> 南海会社は国債を株と換え、貴族も市民も狂気に金を投じている。
> その理なき繁栄を危ういと語ったトマスは、風説の流布と通謀の罪を着せられ、ニューゲートの獄に繋がれた。
> 来られよ。急げ。
読み終えたエドムンドは、しばし手紙を握りしめたまま動かなかった。
数年前、トマスが書き送ってきた「奇妙な仕組み」の話――南海会社。
あのとき一笑に付した名が、今や友の運命を握っている。
静かに机の引き出しを閉めると、彼は召使いに出立の支度を命じた。
そこへセバスティアンが姿を現す。
師の瞳に漂う緊張を察し、思わず口を開いた。
「……閣下、何があったのですか」
エドムンドは短く答えた。
「ロンドンに向かう。すぐにだ」
「ロンドンに……」
弟子は息を呑んだ。だがそれ以上は問わず、ただ深く頭を垂れた。
エドムンドは机の文書に印を押し、若き弟子の前に差し出した。
「セバスティアン。商会の全権を委ねる。署名も決裁も、お前が行え」
「わ、私が……?」
驚きの声が震える。
「私はロンドンに向かう。親友を救い出さねばならん」
師の声音は冷たく澄み、揺らぎがなかった。
それだけを告げると、エドムンドは外套を翻した。
夜明けの鐘が響き、石畳に馬車の音が近づいてくる。
――彼の胸中にはただひとつ。
友を救うため、そして真実を掴むために。
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三日後、北海の風は冷たかった。
灰色の雲が低く垂れ、川霧に包まれたロンドンの塔が、やがて視界に姿を現す。
桟橋に足を下ろした刹那、金属の音が左右で鳴った。
「動くな!」
赤い外套、手枷。
「ロンドン大火の首謀、エドムンド・ヘイル――」
エドムンドは抵抗しなかった。
ゆっくりと懐から厚紙の書付を取り出し、開いて見せる。
金の縁取りに、ポルトガル王の印璽。
同時に、彼の背後から護衛が一歩、前に出た。
王室から付けられた公式の従者だ。
「ポルトガル王室特使、エドムンド・ヘイル」
護衛の朗々たる声が川風に響く。
「いかなる逮捕も、先に外務卿の通告を経ねばならぬ。――法を破るな」
沈黙。
手枷がためらいを帯びて揺れ、やがて下りた。
官吏は歯噛みし、形式的な敬礼をよこした。
「……通行を許す」
エドムンドは頷き、寒さに吠えるテムズの風を受けながら歩き出した。
街は熱気に満ちているのに、空気は氷のようだ。
張り紙、噂、呼び込みの声。
「南海」の二文字が、壁という壁に貼り付いていた。
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ロンドンの夜は、南海会社の熱気と同じほどの騒めきを孕んでいた。
取引所を離れた群衆が、今度は酒場で数字を叫び、泡立つ麦酒に未来を見ようとする。
エドムンドは帽子を目深にかぶり、狭い路地を抜けた。
ナフマンの網――その糸のひとつが、彼をこの店へ導いたのである。
軋む扉を押し開けると、室内は煙と酒の匂いで満ちていた。
投機に浮かされた市民や、情報を売り買いする者たちが口角泡を飛ばしている。
「次は倍になる」「いや暴落だ」と、叫びと笑いが渦を巻いていた。
その喧噪の奥。
煤で黒ずんだ壁に背を預け、沈んだ眼をした印刷工がいた。
エドムンドが近づくと、男は一瞥をくれるだけで、何も言わず手を動かした。
印刷に使うインクの匂いをまとった指が、小さな紙片を卓の下へ滑らせる。
エドムンドはそれを掌で受け取った。
粗末な羊皮紙に走り書きされた、ただ二行。
――トマス、最後の接触。
――相手、ロバート・ハーレー。
その名に、エドムンドの視線が止まった。
一時は国の財政を握った大蔵卿。いまは政の周縁に退いたとはいえ、
その人脈と影響力は、なお侮れぬ。
彼は短く紙を握りつぶすと、印刷工に軽く頷いた。
それ以上、言葉は要らなかった。
酒場を出たとき、外の冷気が肺を刺した。
――ハーレー。
そこに辿り着けば、トマスの鍵が見える。
エドムンドは外套の襟を立て、次の扉を探すべく闇に歩み出した。
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エドムンドは馬車を降り、石畳に足を下ろす。
目の前には、かつて大蔵卿の威光を映した屋敷――今は静まり返った、灰色の壁。
扉を叩くと、痩せた従僕が出てきて、彼の名を確認するなり、驚いたように目を見開いた。
「……お通しせよ。お方は待っていたはずだ」
低く告げると、従僕は無言で頷き、暗い廊下へと導いた。
部屋に入ると、古びた暖炉の炎が揺れていた。
そこに、かつて政権の中枢を担った男がいた。
ロバート・ハーレー。老いの影を漂わせながらも、その眼にはまだ濁らぬ光が残っている。
「……ポルトガルの特使とは、妙な縁だな」
掠れた声で迎えた彼に、エドムンドは一礼した。
「トマスという男を知っているはずだ。最後に会ったのは、あなただと」
「……ああ、あの若い投資家か」
ハーレーは唇を歪め、椅子に深く沈んだ。
「南海会社――国債を株に換え、値を吊り上げ、貴族も市民も踊らされた。
君の友は、それを危ういと叫んだ。だから獄に放り込まれた」
ハーレーは苦く笑い、指先で帳簿を叩いた。
「友を救いたいのだろう。だが、この街では“救う”ことすら値札がつく」
「……誰が糸を引いている」
ハーレーは一瞬口を閉ざし、やがて囁いた。
「ジョン・ブラント。取締役にして、街を泡立てる真の仕掛人だ」
初めて聞く名だった。
エドムンドは微動だにせず、その響きを胸に刻んだ。
「ブラント……」
「忘れるな」
ハーレーはかすかに笑い、乾いた手で杯を傾けた。
「彼は、虚ろに命を与えた張本人だ。だが、その虚ろは必ず崩れる。君の友は、その前に口を閉ざさせられたのだ」
言葉が途切れたとき、部屋には薪の爆ぜる音だけが残った。
エドムンドは静かに立ち上がり、一礼した。
「感謝する」
ハーレーの眼が薄く細められる。
「君が真実を求めるなら……ここに長く留まらぬことだ」
屋敷を出たとき、霧の中で鐘が鳴った。
ジョン・ブラント――。
その名は、ロンドンの街そのものを軋ませるように響いていた。




