第八十八章 風の憧憬
ニューゲートの重い鉄扉が、軋む音を響かせて開いた。
鎖の跡を手首に残したまま、トマス・フィンチが歩み出る。
青ざめた顔、やつれた頬――だがその瞳にはまだ炎が宿っていた。
外で待っていたエドムンドは、言葉を失って立ち尽くした。
「……トマス」
「エドムンド……」
かすれた声が名を呼んだ瞬間、二人は固く抱き合った。
だが次の瞬間、トマスが苦笑して言う。
「おい、あんまり強く抱きしめるな。骨が折れそうだ」
エドムンドも思わず笑みを返す。
「牢に入っても口の減らぬやつだ」
互いの笑い声が、冷たい石壁に反響した。束の間だったが、それだけで過去の陰を払うには十分だった。
やがてトマスは肩を軽く叩き、真剣な眼差しで言った。
「君に逆らう者は、もう誰もいないだろうな」
その声には、牢獄で削がれた日々の重みと、なお折れぬ意思が滲んでいた。
エドムンドは一瞬、彼のやつれた横顔を見つめ、それから静かに頷いた。
「……この街も、海も、王侯貴族でさえも、な」
ふたりの間に短い沈黙が落ちた。
牢獄の石の冷たさも、投機の狂気も、その誓いの前には取るに足らないもののように思えた。
しかしトマスは、すぐに皮肉を交えて問いを投げる。
「……で、君はこれからどうするんだ? また大海に漕ぎ出すのか? それとも議会で王侯相手に暴れるつもりか?」
その軽口に、エドムンドはわずかに笑みを浮かべた。だが眼差しは真剣そのものだった。
「やりたいことがあるんだ」
言葉を区切り、遠くを見るように続けた。
「奪われたものを、取り返したい。……養父の家を。あの書斎を。そこから、もう一度始める」
その声音には、確固たる決意が宿っていた。
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数日後。
テムズを望む丘の上、赤煉瓦の邸宅に足を踏み入れた。
かつて養父が暮らしていた家。今は別の一家が住み、庭には子どもたちの笑い声が響いていた。
主人の男は突然の申し出に顔を曇らせた。
「……手放せと言われても、応えかねます。ここは私たちの思い出の詰まった家ですから」
エドムンドは静かに頷き、懐から小切手を取り出した。
そこに、破格の額を書き入れて差し出す。
「これは家の代価。そして、あなた方の思い出への礼だ」
男は言葉を失い、やがて深く息を吐いて頷いた。
「……これほどの誠意を示されては、断る理由はありません」
引き渡しの日。荷車が去るのを見届け、エドムンドはその家の扉を押し開けた。
長い年月を経ても、床板は同じ軋みを奏で、壁には燭台の跡が残っていた。
彼は書斎へ向かう。
窓から差し込む光が、古びた机の木目を照らしている。
かつて養父がそこに座り、羽根ペンを走らせていた姿が、鮮やかに蘇った。
夜更けまで帳簿に向かう背中。
暖炉の灯りに照らされ、静かに煙草をくゆらせる横顔。
時折こちらを振り返り、「学ぶのだ、エドムンド」と語った低い声。
震える指先で机を撫でる。木の温もりが、遠い日々を呼び覚ます。
少年だった自分が椅子に腰掛け、必死に文字をなぞっていた記憶。
その肩に置かれた、父の大きな手の感触。
胸の奥が熱く満ち、言葉がこみ上げる。
「父さん……帰ったよ」
呟きは静かに、広間に響いた。
今は誰もいないはずの家で、不思議と返事を待ってしまう。
だが応える声はなく、ただ外の風が窓を震わせた。
エドムンドは目を閉じた。
それでも確かに――ここには父の気配が残っている。
彼は深く息を吸い込み、静かに椅子を引いた。
もう一度、この机に向かい、父が果たせなかった続きを自らの手で綴るために。
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その頃、シティのコーヒーハウスでは、別種の熱気が渦を巻いていた。
壁際の長椅子に腰かけた商人が新聞を叩き、向かいの議員が声を潜めて囁く。
「エドムンド・ヘイルがロンドンにいるらしいぞ」
「ただの商人のくせに、ファーストレートの戦列艦を沈めた男だ」
「いや、黒髭を討った英雄だ」
「太陽王に謁し、スペインを弱体化させた策士でもある」
熱を帯びた声が、煙草と焙じた豆の香りに混じり、店内を揺らした。
机を囲む投資家たちが身を乗り出し、片隅では書記が急ぎノートに書き留める。
議員も商人も投資家も、杯を打ち鳴らすようにその名を口々に囁いた。
「東インド会社が彼を呼び寄せようとしている」
「もし味方につけられれば、海の覇権も揺るがぬだろう」
熱気は壁を震わせ、夜更けの街角にまで流れ出ていく。
誰もが未来の利を占おうと、紙と声で火花を散らしていた。
こうしてロンドンという街そのものが、エドムンドを次なる舞台へ押し上げようとしていた。




