第八十二章 アレクサンドリアの問い
アレクサンドリアの港を渡る風は、香辛料と潮の匂いを混ぜ合わせ、異国のざわめきを街へと運んでいた。
その夕刻、セバスティアンの宿を一人の男が訪ねてきた。
黒衣の裾を揺らし、鷲のような眼差しを持つその姿に、セバスティアンは思わず背筋を正した。
――ナフマン。
ヘイルの盟友にして、地中海と東方を結ぶ交易網を操る男。
サロニカからの密使に名を聞かされた時から、その存在にただならぬ重みを感じていた。
今、その眼前に立つ男は、確かに噂に違わぬ人物だった。落ち着いた佇まいと、どこか全てを見透かすような眼差し。
「なるほど……君が、ヘイルの弟子か」
ナフマンは口元に笑みを刻んだ。
「彼が弟子を取るとは思わなかった。しかもまだ若い。……だが、瞳に迷いがないな」
セバスティアンは深く頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です。閣下の名は、師より幾度も伺っております」
「挨拶はよい」
ナフマンはわずかに身を傾け、声を潜めた。
「ここはアレクサンドリアだ。ヘイルに仕える者ならば、問いに答えてみせよ。……君はここから何を持ち帰る?」
部屋の中に、しばし沈黙が落ちた。
窓の外からは、港の喧噪が遠く響いている。積荷を降ろす掛け声、香辛料の香り、帆布を畳む音。
セバスティアンは唇を引き結んだ。
交易ではない。問われているのは視点そのものだ。
彼は拳を握り、やがて口を開いた。
「……アレクサンドリアは、かつて世界を結ぶ港でした。
プトレマイオス朝の時代、この地は紅海とインド洋を通じ、アジアの富をヨーロッパへと運んだ。香辛料も、象牙も、宝石も――ここを経て、ギリシャへ、ローマへと伝わったのです。
今、その栄光は衰えています。ですが私は思うのです。
もしここに、未知の輝き――“新しい星”を流すことができれば、再びこの港は世界を結ぶ結節点となる、と。」
セバスティアンはまだ未熟ながらも、光を閉じ込めるように削られた石を取り出した。
「私が持ち帰るのは、石そのものではなく、この考えです。
交易の道をどう開けば古き港が甦るのか、その答えを――エドムンド様にお伝えします」
ナフマンの瞳が細められた。
やがて小さく笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「なるほど……ヘイルが目をかけるわけだ。若き弟子よ、そなたの言葉に私は力を貸そう。
この港に再び星を流すために――私の網を使え」
そう告げると、ナフマンは手を差し伸べた。
セバスティアンは深く頭を下げ、その手を固く握り返した。
その夜、アレクサンドリアの空には無数の星々が瞬いていた。
セバスティアンは、その光の中に、まだ磨かれていない一つの原石――未来の輝きを見た気がした。




