第七十七章 黒髭襲来
リスボンの執務室に差し込む陽光は、春の訪れを告げていたが、エドムンドの元に届けられた報告書は、冬の凍てつく風の匂いを運んできた。
カリブ海で、商会の庇護下にある船が襲われている。
犯人は、ベンジャミン・ホーニゴールドではない。彼と袂を分かった、エドワード・ティーチという若者。
「……ティーチ」
エドムンドは、その名を覚えていた。数年前、ホーニゴールドを撃退した折、その甲板で最後まで抵抗し、獣のような瞳でこちらを睨みつけていた若者。彼の心に、あの瞳の残像が、微かに焼き付いていた。
「艦隊を集結させる」
彼は静かに言った。呼ばれたのは二人の提督。
デュゲ=トルアンが現れると、エドムンドは報告書を黙って差し出した。紙の上の名を見て、狼のように笑った。
「仔犬が成長したようだな」
そこへ、別の声が響いた。秩序正しい足取りで現れたのはウッズ・ロジャース。彼は冷静に言葉を添える。
「狼と仔犬の遊び場では済まぬ。艦隊を整えるときだな」
エドムンドは二人を見渡し、静かに頷いた。
「西へ行く。これは、商会に牙を剥いた愚か者の討伐だ」
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大西洋は、容易に越えられる道ではなかった。十二隻の艦隊は、季節風を捕らえながら、ひたすらに西を目指す。日々の空は移ろい、時に青く、時に鉛色に沈んだ。食糧は計算され、航路は厳密に守られ、船員たちは毎日、甲板で号令と共に操練を繰り返した。
だが、均整のとれた航海の中にも、張りつめた気配があった。エドムンドは夜ごと地図を前にし、過ぎる波の音を聞きながら考えた。――これはただの航海ではない。海の向こうには、己が復讐を阻もうとする、黒き獣が待っているのだ。
ついに、カリブの海へ入った。青く澄んだ水平線に、白く立つ積乱雲が天を覆い、蒸した風が艦隊の帆を重くする。
その三日目の午後、突如、風がぴたりと止んだ。広い海原が、まるで湖のように静まり返る。
「不自然だ……」
デュゲ=トルアンが眉を寄せた。水夫たちの間に「魔女の凪」という囁きが走る。
ロジャースは一喝した。
「隊形を乱すな! 恐怖こそ敵を呼ぶ!」
だが、その声を飲み込むように、霧の帳の向こうから、黒い影が現れた。
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黒髭――エドワード・ティーチ。煙をまとい、オールを漕がせて接近するスループの甲板に、その異様な巨躯が立っていた。
「旧き支配は終わった! 恐怖が法を定めるのだ!」
伝声管を通して響く声は、海そのものを震わせた。鉤縄が次々と投げ込まれ、艦と艦とが噛み合った。海賊たちが怒号と共に雪崩れ込み、甲板はたちまち血と火花に染まる。
「ロジャース、右翼を抑えろ!」
エドムンドの命令に、ロジャースは剣を抜いた。
「全員、私の背を守れ! 列を崩すな!」
規律に基づく彼の動きは、乱戦の中に鋼の壁を作り出す。槍を構えた兵が整然と敵を押し返し、ロジャース自身は最前列で冷静に刃を振るった。彼の剣筋は派手ではない。だが、的確で、確実に命を奪う。
その隣で、デュゲ=トルアンは舞うように斬り込んでいた。狼のように笑い、鮮血を浴びることを厭わず、剣を閃かせる。――規律の盾と、狂気の刃。二人の対照的な戦いが、混乱する甲板をかろうじて支えていた。
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源八は、常に抱えていた銃を腕に載せていた。彼が自ら鍛えた、黒光りする異形の銃。プロト・ミニエ銃。その銃声は、海賊たちにとって未知のものだった。弾丸は厚い盾を貫き、背後の兵を胸ごと吹き飛ばす。撃たれた者は何に貫かれたのか分からぬまま、血を吐いて崩れ落ちた。
源八は無言で、次の弾を込め、また引き金を引く。一発ごとに、海賊たちの心から獰猛さが失われていく。エドムンドは、乱戦の渦を冷徹に見渡した。奇襲は確かに成功した。だが、黒髭の勝利は、ここで止まる。
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戦いの終わり、ティーチは鎖に繋がれ、甲板に引き据えられた。なおも獣の眼で睨みつけるその姿に、エドムンドは微笑みながら囁いた。
「久しいな。ずいぶんと立派になったものだ」
デュゲ=トルアンは唇の端を吊り上げ、ロジャースは冷静に言葉を添えた。
「殺すには惜しい」「裁きの場で混乱を呼ぶでしょう」
エドムンドは頷いた。
「英領近海まで曳航せよ。後は法に委ねる」
源八は何も語らず、ただ愛しい楽器のようにミニエ銃を拭っていた。硝煙の匂いがまだ、戦場の空気に漂っていた。




