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第六十六章 届かぬ祝杯

 リスボンにおける「ハーグリーヴス商会」の覇権は、絶対的なものとなった。


 ホーニゴールドを屈服させたことで、エドムンドの「黄金の道」に逆らう者は、もはや誰もいなくなった。金は、ブラジルから、リスボンへ、そして彼の金庫へと、巨大な川のように、滞りなく流れ込み続けていた。


 その日の午後、エドムンドは、壮麗な商館の執務室で、アゾレス諸島のデュゲ=トルアンから届いた報告書に、静かに目を通していた。全てが、彼の計画通りに進んでいた。


 彼は、机の隅に大切に置かれていた、日本の酒の徳利に、ふと目をやった。


(……そろそろ、フィリップを、一度リスボンへ招いても良いかもしれないな。)


 全ての戦いが終わったら、再び、トマスとフィリップと三人で祝杯を上げる。


 それは、彼にとって、この冷酷なビジネスの世界で、唯一の温かい約束となっていた。


 その時だった。秘書が、神妙な面持ちで、一人の来客を告げた。


「旦那様……。フランスの、ヴァレリー家からの、至急の使いの方が、お見えです」


 エドムンドの心臓が、冷たく跳ねた。


 書斎に通された使者は、フィリップの家の、年老いた執事だった。その顔は、深い悲しみで、やつれ果てていた。彼は、エドムンドの前に、黒いリボンがかけられた、一通の手紙を、震える手で差し出した。


 手紙には、ヴァレリー家の黒い封蝋が、押されていた。


 彼は、震える手で、封を切った。


 手紙の差出人は、フィリップの父、老侯爵だった。インクの文字は、深い悲しみで、ところどころ滲んでいた。


> 「我が盟友、エドムンド・ヘイル殿。


> 君に、これを書いている今も、信じることができずにいる。


> 我が息子、フィリップは、先日、フランドル地方で起きた、マルプラケの会戦において、


> 皇帝軍の銃弾に倒れ、神の御許へと旅立った。


> 彼は、最後まで、勇敢な軍人として、そして、ヴァレリー家の名に恥じぬ、誇り高き男として、戦い抜いた。


> 息を引き取る間際、彼は、私に、君への遺言を託した。


> 『父上。もし、私が帰らぬことがあれば、我が友、エドムンドに、こう伝えてほしい。


> ―――君と共に見た、新しい時代の夢。その続きを、見届けることができず、すまない。


> だが、君なら、必ずや、成し遂げると信じている。


> 私の分まで、君の道を、生きてくれ―――』と」


>


 手紙が、エドムンドの手から、はらりと滑り落ちた。


 耳の奥で、キーンという、高い音が鳴り響いている。


 書斎の豪華な調度品も、窓の外の栄光の艦隊も、全てが色を失い、意味をなさなくなった。


 彼は、何のために戦ってきた?


 金のためか? 名声のためか?


 違う。全ては、あの強制労働の底で失ったはずの、自由な未来を取り戻すためだった。


 そして、未来を、初めて共に語り合い、信じてくれたのが、フィリップではなかったか。


 エドムンドは、机の上の、日本の酒の徳利を、ゆっくりと手に取った。


 もう、この祝杯を、交わす相手は、いない。


 彼の目から、ロンドンの大火で、家族を失って以来、決して流すことのなかったはずの、熱い涙が、一筋、こぼれ落ちた。


 彼は、勝利の頂点で、その勝利の、本当の意味での「代償」を、初めて知ったのだ。


 あまりにも大きく、そして、取り返しのつかない、代償を。

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