第六十五章 獅子の首輪
拿捕された旗艦「レンジャー号」の船長室。
そこは、数時間前までイングランド最強の私掠船長の一人、ベンジャミン・ホーニゴールドの王国だった。だが今、その主は武装解除され、勝者を待つ一人の捕虜となっていた。
部屋に入ってきたのは、エドムンド・ヘイル。
その両脇を、ルネ・デュゲ=トルアンとウッズ・ロジャースが固めていた。フランスの狼とイングランドの獅子。その二人の伝説的な海の将を従える、謎の商人――。
「……あんたが、黒幕か」
ホーニゴールドは椅子に座ったまま静かに言った。名は知らずとも、この男が群れの主であることだけは理解していた。
「見事な手腕だった。殺すなり、吊るすなり、好きにしろ」
「殺すのは金の無駄だ」
エドムンドは静かに答えた。
「私の名はエドムンド・ヘイル。ハーグリーヴス商会の者だ。あなたにビジネスを提案したい」
彼は一枚の海図をテーブルの上に広げた。
それは大西洋の地図ではなく、カリブ海とメキシコ湾が描かれた詳細な海図だった。
「キャプテン・ホーニゴールド。あなたは今日、イングランドの私掠船長としての全てを失った。本国へ戻れば敗軍の将として軍法会議が待つ。もはや英雄ではない。だから、新しい『職業』を提案したい」
ホーニゴールドは何も言わず、ただ次の言葉を待った。
エドムンドは海図のハバナやトルトゥーガを指さす。
「私をここに送り込んだイングランド商人たち。彼らの富の源泉はここにある。新大陸のスペイン商人から非合法に買い付けたシェリー酒や銀だ。それを一度この島々で『洗浄』し、安全な商船隊を装ってヨーロッパへ送っている」
エドムンドの目がホーニゴールドを射抜く。
「君の新しい仕事は、カリブの海だ。イングランド商人たちが使うその集積地を叩き潰せ。船を沈めるだけでは生ぬるい。倉庫を焼き、協力者を脅し、密輸ルートを根元から断ち切れ」
「……見返りは?」
「君が奪った全ての積荷だ」エドムンドは即答した。
「さらに、この『レンジャー号』も修理して返そう。その任務を遂行する限り、我がハーグリーヴス商会は君の存在を大西洋で黙認する」
彼の声は氷のように冷たくなる。
「ただし、我が社の保険を受けた船に指一本でも触れてみろ。その時は私が全力で、君を海の底に沈める」
ホーニゴールドは沈黙した。
それは英雄としての誇りを完全に捨てることを意味する提案だった。だが敗北し、国からも見捨てられる彼に選択肢は残されていなかった。
「……分かった」彼は吐き捨てるように言った。
「その話、乗ってやろう。だが覚えておけ、ヘイル。俺は誰の犬にもならん」
「犬は必要ない」エドムンドは静かに答えた。
「私が欲しいのは、敵の喉笛に確実に食らいつく、飢えた狼だ」
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数日後。
エドムンドの艦隊から、一隻のフリゲート船が静かに離れていった。修理され、最低限の物資を積んだ「レンジャー号」である。
ベンジャミン・ホーニゴールドは、屈辱の捕虜ではなく、新たな任務を帯びた一匹の狼として、西の海――カリブへと船首を向けた。
エドムンドは最も危険な獅子に新しい首輪をつけ、彼の得意とする狩場へと解き放ったのだ。
遠いカリブの海でイングランド商人たちの悲鳴が上がる頃、リスボンのエドムンドは何食わぬ顔で、ポルトガル国王との次の取引を進めているだろう。
彼の戦場は、もはや一つの海域には収まらなくなっていた。




