第五十五章 失脚
大西洋上で起きた「信頼の崩壊」のニュースは、当事者である船団がリスボンに帰港するよりも早く、ナフマンの快速の連絡船によってエドムンドの元へ届けられていた。そして、それは即座に、リスボンの商人社会の隅々にまで巧妙に流布された。
数日後、港に戻ってきたイングランドの金輸送船団の姿は、悲惨だった。ポルトガル海軍の戦列艦は、まるで他人事のように、さっさと自らの母港へ帰っていく。残されたイングランド商船たちは傷つき、統率を失い、まるで敗残兵のようだった。ハリントン卿の「マーメイド号」が失われただけでなく、船団全体の士気は地に落ちていた。
その日の午後、リスボンのイングランド商館では、歴史上最も荒れた会議が開かれていた。
「スターリング卿! 貴様のせいで、全てがめちゃくちゃだ!」
ハリントン卿は、もはや敬意のかけらも見せず、スターリングを指さして罵倒した。
「貴様の無能と、ポルトガル人への傲慢な態度が、この惨事を招いたのだ! いや、そもそも、お前が『自作自演』で我々を陥れたのではないのか!」
エドムンドが蒔いた「噂」は、今やイングランド商人たちの心の中で、疑いようのない「真実」となっていた。スターリングは必死に弁明しようとした。「違う! あれはヘイルの罠だ!」と。だが、もはや誰も彼の言葉に耳を貸さなかった。商人たちが信じるのは、目の前にある「損失」という冷酷な事実だけだった。
その日のうちに、サー・リチャード・スターリングは、リスボン・イングランド商人組合の長の座を解任された。彼は全ての権威と仲間からの信頼を失い、たった一人で商館から追放された。
イングランド商人たちが内紛で自滅していく様を、エドムンドは自らの司令室から静かに見届けていた。そして、混乱が頂点に達したその瞬間を狙って、次なる一手を打った。
彼はイングランド商人たちの新しい代表となったハリントン卿の元へ、一通の招待状を送った。
「…昨今の海上の混乱は、我々商人全体の不幸。もはや、イングランドも、ポルトガルも、ジェノヴァもありません。共通の敵(海賊)に対し、我々は手を取り合うべきです。今後の金輸送の安全について、協力の道を話し合いませんか」
それは勝者から敗者への、あまりにも寛大な提案に見えた。ハリントン卿は罠を警戒しながらも、その招待に応じるしかなかった。エドムンド・ヘイルが今やこの港の金の流れを左右する最強のプレイヤーであることは、誰もが認めざるを得なかったからだ。
エドムンドは敵対していた勢力を叩き潰すのではなく、巧みに吸収し、自らの新しい「秩序」の中に組み込もうとしていた。そして、その全ての動きは、リスボンの王宮にも詳細に報告されていた。
病床にあった国王ドン・ペドロ二世は、側近からの報告を聞き、深く、長い息をついた。
「…面白い男だ。イングランドという巨大な獅子の群れを、内側から食い破ってしまうとはな」
彼は長年、ポルトガル経済を牛耳るイングランド商人たちを苦々しく思っていた。だが、彼らと事を構えるだけの力がポルトガルにはなかった。その、誰もが不可能だと思っていたことを、このエドムンド・ヘイルという、どこからともなく現れた新参者が、たった数ヶ月で成し遂げてしまったのだ。
「…会ってみたい」
王は弱々しい声で、しかし瞳には強い好奇心の光を宿して側近に命じた。
「その、ハーグリーヴス商会のエドムンド・ヘイルという男を、密かにここへ呼べ」
エドムンドの策略は、ついにポルトガルという国家の最も深い中枢にまで届いた。新しいゲームの幕が、今、上がろうとしていた。




