第五十四章 信頼の崩壊
アゾレス諸島沖の海は、不気味なほど静かだった。
ポルトガル海軍提督ジョアン・ダ・コスタが指揮する金輸送船団は、巨大な戦列艦二隻を中核に、鉄壁の陣形を組んで航行していた。その旗艦「サン・マルティニョ号」の船尾甲板は、艦隊の威容とは裏腹に、冷たい緊張感に包まれていた。提督の横には、この船団の「荷主」であるイングランド商人代表サー・リチャード・スターリングと、その政敵ハリントン卿がオブザーバーとして控えていたからだ。
スターリングは尊大な態度で提督にあれこれ指示を出そうとする。だが、ダ・コスタ提督は聞こえないふりをして無視し続けた。彼の頭の中には、リスボンで耳にした「イングランド人どもの自作自演」という噂が渦巻いていた。
その時だった。水平線の霧の中から、まるで亡霊のように四隻の黒いフリゲート船が姿を現した。ルネ・デュゲ=トルアンの艦隊だった。
「敵襲!」
見張り台からの声に、甲板は一気に緊張に包まれた。だがデュゲ=トルアンの艦隊は戦列艦には目もくれず、陣形の最も外側を航行していたハリントン卿所有の商船「マーメイド号」に牙を剥いた。四隻のフリゲート船がその圧倒的な速力であっという間に「マーメイド号」を包囲し、護衛艦隊から切り離してしまう。
「提督! 私の『マーメイド号』が!」
ハリントン卿が顔面蒼白で叫ぶ。
スターリングも提督に詰め寄った。
「何をためらっている! 直ちに艦隊を動かし、あの海賊どもを撃滅しろ! これは我々とポルトガル王室との契約のはずだ!」
だが、ジョアン・ダ・コスタ提督は冷たい目で慌てふためくイングランド人たちを一瞥すると、静かに、しかしはっきりと言った。
「我が使命は、船団全体の安全を確保することにある。一隻の商船を救うために貴重な戦列艦を危険に晒し、この鉄壁の陣形を崩すことは、国王陛下への背信行為となる」
「なっ…!」
「それに…」提督はスターリングの目を射抜くように見つめた。「…その『海賊』が本当に我々の敵なのかどうか。私には、まだ判断しかねる」
それは遠回しながら、完璧な反逆の言葉だった。スターリングとハリントン卿は何もできなかった。ここはポルトガルの軍艦の上。彼らはただの客人に過ぎない。二人は、自分たちの目の前で、味方であるはずのポルトガル海軍が指一本動かさずに、同胞の船を見殺しにする様を、ただ見ていることしかできなかった。
デュゲ=トルアンの仕事は迅速だった。彼は「マーメイド号」を拿捕すると、その積荷の金塊を自らの船へ移し、船員たちを解放した後、空になった船に火を放つ。燃え盛る船を置き去りにし、再び霧の中へ悠然と姿を消していった。
その日の夕刻。船団は、まるで葬列のように重い沈黙の中で航行を続けていた。ハリントン卿はスターリングの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒りをぶつけた。
「見殺しにしたな、スターリング! 貴様がポルトガル人どもを手懐けられないからだ! もはや貴様を我々の代表とは認めん!」
イングランド商人たちの同盟は、大西洋の真ん中で、敵前で、完全に崩壊した。
そして、ポルトガル海軍の提督はリスボンの国王へ、こう報告書を送った。
「…敵の巧妙な罠により、イングランド商船一隻が犠牲となったは遺憾。しかし、我がポルトガル海軍の貴重な艦艇は一隻の損害もなく、任務を継続中…」
エドムンドが蒔いた不信の種。それは彼が望んだ最も完璧な形で、敵の同盟という名の絆を内側から完全に破壊してみせたのだ。




