第五十三章 英国の逆襲
秘密の島での束の間の休息は、リスボンから届いた一通の緊急報告によって終わりを告げた。
エドムンドはナフマンの代理人からの暗号文を解読すると、その顔を険しくした。
「…スターリングが動いた」
彼の声に、デュゲ=トルアンと源八が海図を広げたテーブルへと集まる。
「どういうことだ?」
「サー・リチャード・スターリングは、その政治力を使い、ポルトガル国王ドン・ペドロ二世を動かした。次のブラジルからの金輸送船団には、ポルトガル海軍の主力である戦列艦二隻が直々に護衛につくそうだ。提督は、あのジョアン・ダ・コスタ。海軍きっての頑固者で、実戦派だ」
その名を聞いて、デュゲ=トルアンの表情が変わった。フリゲート艦と戦列艦とでは、大人と子供ほどの戦力差がある。大砲の数、装甲の厚さ、乗組員の数、その全てが比較にさえならない。
「…戦列艦が二隻。それに護衛のフリゲートが数隻つくだろう。まるで要塞が海を動いているようなものだ。正面からの攻撃は不可能だぞ、ヘイル」
「分かっている」エドムンドは、海図の上で厳重な護衛に守られて航行するであろう未来の船団の航路を指でなぞった。「だから、我々は船団そのものを攻撃しない」
「…では、どうする?」
エドムンドは顔を上げた。その目には冷たい、計算され尽くした光が宿っていた。
「我々が攻撃するのは、船ではない。人間の『信頼』という、最も脆い部分だ」
その数週間後から、リスボンの港では奇妙な噂が流れ始めた。最初は船乗りたちが集まる薄汚い酒場からだった。
「聞いたか? この前の海戦で、デュゲ=トルアンに解放された『サンティアゴ号』の船乗りの話だ。奴らが言うには、デュゲ=トルアンの船団はイングランドの旗を掲げていたらしいぜ…」
噂は徐々に形を変えながら、商人たちの取引所へと広がっていった。
「どうやら、最近の海賊騒ぎは、イングランド商人たちの自作自演らしい。自分たちの保険を高く売りつけるために、わざと海を荒らさせているのだとか」
そして噂はついに、ポルトガル海軍の士官たちが集う高級なクラブにまで届いた。
「サー・リチャード・スターリング卿は、我らが海軍をまるで自分たちの私兵のように扱っている。彼の命令一つで我々は命を賭けて彼の金塊を守らされているのだ。その間、彼はリスボンでポルトガルワインではなく敵国スペインのシェリーを密輸して儲けているというではないか…」
エドムンドが陸の上で張り巡らせた情報網が、一斉に動き出したのだ。彼はスターリングが自分に仕掛けようとしたのと同じように、「過去」という名の毒を、今度はスターリング自身に静かに、しかし確実に注ぎ込んでいた。
アゾレス諸島沖。
デュゲ=トルアンの艦隊は、その姿を完全に消していた。彼らはエドムンドの指令通り、一切の襲撃行動をやめ、ただ嵐のように静まり返っていた。
その頃、ポルトガル海軍の提督ジョアン・ダ・コスタが指揮する金輸送船団は、厳戒態勢で航海を続けていた。提督は神経質に水平線に目を凝らしていた。いつ、あの神出鬼没のデュゲ=トルアンが襲いかかってくるかと。
だが、それ以上に彼の神経を苛んでいたのは、リスボンから届く不穏な噂の数々だった。
(…イングランド人どもは、本当に信用できるのか? 我々は本当にポルトガルの金を守っているのか? それとも、ただあの傲慢な英国紳士の私腹を肥やすために利用されているだけなのではないか…?)
船団の結束は、まだ崩れてはいない。だが、その最も重要な中枢であるポルトガル海軍とイングランド商人との間の「信頼」という名の舵鎖に、弾丸よりも遥かに深く、そして致命的な亀裂が入り始めていた。




