第五十二章 秘密の島の祝杯
アゾレス諸島の海図にも載っていない入り江は、天然の要塞だった。断崖絶壁が外洋の荒波と招かれざる者の視線を完全に遮断している。エドムンドの四隻のフリゲート船団は、ここで傷を癒し、次の狩りに備えていた。
最初の戦いに勝利し、秘密の拠点へと帰還した数日後の夜。旗艦「ル・ヴァン」号の船長室は、ランプの穏やかな光に満たされていた。エドムンド、デュゲ=トルアン、そして源八。三人の男たちはささやかな祝杯を上げている。
「見事な手際だったな、ヘイル!」デュゲ=トルアンは上機嫌でラム酒の杯を掲げた。「俺の操船と源八の牙、そしてお前さんの知恵。この三つが揃えば、戦列艦が相手でも恐るに足らん!」
彼は豪快に笑った。源八は、いつものように黙って静かに杯を傾けている。
「提督の言う通りだ」エドムンドはデュゲ=トルアンに頷き返すと、今度は黙っている源八の方へ向き直った。「そして源八。君の『牙』がなければ、この勝利はなかった。君には特別な酒を用意した」
エドムンドはそう言って木箱の中から見慣れない陶器の徳利を取り出した。
「リスボンの、東洋と取引のあるごく一部の商館で偶然見つけたものだ。『米の酒』だという。ひょっとしたら、と思ってな」
彼はその酒を源八の杯にとくとくと注いだ。
その瞬間、それまで何の感情も示さなかった源八の動きがぴたりと止まった。彼は杯から立ち上る甘く芳醇な香りを嗅ぎ、目を信じられないように見開いた。震える手で杯を口に運び、一息に飲み干す。彼の目から一筋の涙がこぼれ、無精髭の生えた頬を伝った。
「…故郷の味だ」
その一言をきっかけに、普段は無口な源八が驚くほど流暢に、自らの過去を語り始めた。堺の鉄砲鍛冶の家に生まれ、西洋の技術を取り入れて誰も見たことのない「最強の銃」を作ることだけを夢見て求道者のように生きてきたこと。そして、ある出来事に巻き込まれて故郷を離れざるを得なかったこと。
源八の話に触発され、デュゲ=トルアンもまた自らの過去を語った。フランス国王のために戦ったが、宮廷の貴族たちからは常に「血筋の卑しい海のならず者」として扱われてきたことへの誇りと憤りを。
エドムンドは二人の話を聞き、自らの過去の一端を明かした。ロンドンで理不尽な力によって全てを奪われ、奴隷となったこと。そして、金や権力そのものではなく、誰にも支配されない「真の自由」を求めてここにいること。
異なる場所で生まれ、全く違う人生を歩んできた三人が、その夜初めて互いの魂に触れた。彼らは、それぞれの目的のために互いの力を必要とする単なる協力者ではない。国家や血筋といった古い世界の軛から逃れた、新しい時代を生きるたった三人の「家族」になったのだ。
エドムンドは空になった徳利を手に取ると静かに言った。
「…また、手に入れよう。この酒を」
その言葉は約束だった。いつか、全ての戦いが終わった日に、再びこの三人の家族で祝杯を上げるための。
夜が明けたら、彼らの本当の戦いが始まる。金の市場を支配し、世界の秩序に挑むための長い戦いが。




