第五十一章 狼の牙と蛇の毒
エドムンドが放った「毒」は、彼の予測を上回る速さで、イングランド商人たちの結束を内側から蝕んでいった。
リスボンのイングランド商館で開かれた緊急会議は、怒号と不信が渦巻いていた。
「スターリング卿! あなたの指揮下で、我々は補給船を失った! そして今度は、護衛についていたはずの海軍のフリゲート艦までが、消息を絶ったと聞く! 一体、どうなっているのだ!」
スターリングの長年のライバルであるハリントン卿が、公然と彼を非難した。スターリングは冷静を装って反論する。
「…諸君、落ち着きたまえ。これは、あのならず者、ヘイルの仕業だ。奴をリスボンから排除すれば、全ては解決する」
「我々の船は沈められ続けているのだぞ!」ハリントンはさらに声を荒げた。「それに、あなたの商会がスペイン産のシェリーを密輸して私腹を肥やしている、という黒い噂も私の耳には届いているが…」
その言葉に、スターリングの顔色が変わった。エドムンドが流した匿名の情報が、すでに政敵の耳に届き、強力な武器として使われ始めていたのだ。商人たちの強固だった同盟に、深い亀裂が入った瞬間だった。
その数日前。カナリア諸島沖の霧深い海域。
デュゲ=トルアンの艦隊は、狼の群れのように静かに獲物を待っていた。彼らの標的は、イングランドの金輸送船団を護衛するポルトガル海軍のフリゲート艦「サンティアゴ号」だった。
「…来たな」
霧の向こうに獲物のシルエットが浮かび上がる。デュゲ=トルアンは海図を叩いた。
「計画通りだ! 二番艦、三番艦はあの岩礁の裏へ回り込め! 四番艦は偽の商船旗を掲げ、奴の注意を引け! 『ル・ヴァン』は源八の『牙』が届くぎりぎりの距離まで、奴に気づかれずに接近する!」
それは海戦の常識を覆すような大胆不敵な戦術だった。
ポルトガル海軍のフリゲート艦は、霧の中で助けを求める一隻の商船(エドムンドの四番艦)を発見し、何の疑いもなくその救助へと向かった。そして、彼らがちょうど岩礁地帯を通過しようとしたその瞬間――
「ル・ヴァン」号の船首楼で、源八の固定式狙撃銃が火を噴いた。凄まじい轟音と共に、鋼鉄の矢(フレシェット弾)が霧を切り裂いて飛翔する。一キロ以上離れた「サンティアゴ号」のメインマストのど真ん中に、それは突き刺さった。巨大なマストは信じられないような音を立てて根元からへし折れた。
推進力を完全に失い、ただの的と化した「サンティアゴ号」の目の前に、岩礁の陰から二隻のフリゲート船が死神のように姿を現した。勝負は一瞬で決した。
デュゲ=トルアンは敵艦を沈めはしなかった。彼は敵の船員たちを武装解除させると、彼らを救命ボートに乗せ、近くの島へと解放した。「ハーグリーヴス商会の恐ろしさをリスボンで語り継げ」という冷たい伝言と共に。そして、無人となったポルトガル海軍のフリゲート艦に火を放ち、悠然と霧の中へと姿を消した。
リスボンはパニックに陥った。海軍のフリゲート艦が、たった一人の商人の手でいとも簡単に無力化された。そのニュースはイングランド商人たちの心を恐怖で凍りつかせた。
その混乱のさなか、エドムンドは次なる一手を打った。彼は「ハーグリーヴス商会」の名で、新しい「金輸送保険」の事業を開始すると、リスボンの全ての取引所に高らかに布告したのだ。
「…昨今の海上の治安悪化を鑑み、我が社は独自の艦隊による、ブラジルからの金輸送船団の完全なる護衛を引き受ける。我が社の保険を受けた船の安全は、提督ルネ・デュゲ=トルアンの名において保証される…」
それはポルトガル海軍とイングランド商人たちに対する公然の宣戦布告だった。「我々のやり方に従うか、それとも海賊(デュゲ=トルアン)の餌食となるか、選べ」と。
スターリングは、自らの執務室でその布告が書かれた羊皮紙を怒りに震える手で握り潰した。陸では政敵からの突き上げに遭い、海では正体不明の敵に主力艦まで狩られる。彼は、自分がただの商人ではない、底知れない怪物と戦っていることを、ようやく悟った。
罠は、すでに彼の首元まで迫っていた。




