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第五十章 狼たちの出航

その数日後。リスボンから少し離れた霧深い入り江。


夜明け前の薄明かりの中、エドムンドの四隻のフリゲート船団は、音もなく出航の準備を進めていた。旗艦「ル・ヴァン」号の甲板では、エドムンドとデュゲ=トルアンが最後の打ち合わせを行っている。


「最初の標的は、イングランド商人がチャーターした海軍の補給船団だ。戦列艦には決して手を出すな。目的は撃沈ではない。敵の兵站を断ち、苛立たせることだ」


「承知した」デュゲ=トルアンは、大西洋の暗い海原を睨みながら答えた。「我々は幽霊になる。敵は我々の牙を感じるが、その姿を見ることはない。お前こそ、陸の上の蛇どもに足元をすくわれるなよ、ヘイル」


「ああ」


 二人の間に、それ以上の言葉は不要だった。彼らはただ固い握手を交わした。


 エドムンドは、次に船首楼で巨大な狙撃銃の最終調整を行っている源八のもとへ向かった。


「…頼んだぞ、源八」


 源八は顔を上げることなく、ただ、こくりと頷いた。彼の指は、まるで生き物の一部であるかのように銃の冷たい鋼を撫でていた。


 エドムンドは、一艘の小舟に乗り移り、母船から離れる。デュゲ=トルアンの号令一下、四隻のフリゲート船は、まるで黒い影のように霧の中へと滑り出していった。行き先はアゾレス諸島の秘密の拠点。そして彼らの狩場である。


 エドムンドは、その姿が完全に朝霧の中へ溶けて見えなくなるまで、小さな舟の上からじっと見送っていた。彼は、今やリスボンで完全に一人になった。だが心に孤独はなかった。


 その日の午後、リスボンの「ハーグリーヴス商会」の事務所は、再び静かな「司令室」へと姿を変えていた。壁にかけられた大西洋の海図は隅へとやられ、代わりにリスボンの貴族や商人たちの複雑な人間関係と金の流れを示す巨大な相関図が広げられていた。


 エドムンドの陸の上での戦いが始まった。彼はナフマンのネットワークを通じて、スターリングの金の流れを徹底的に洗い出させた。そして、一つの綻びを見つける。スターリングは表向きポルトガルとの友好を謳いながら、その裏でメシュエン条約に違反し、ポルトガル産のワインではなく、スペイン産の安いシェリー酒をポルトガル産と偽ってイングランドへ密輸し、莫大な利益を得ていたのだ。


 エドムンドは、その事実をポルトガル当局に密告するような愚かな真似はしなかった。彼は、その情報を記した匿名の長い手紙を、スターリングの最大のライバルである別のイングランド商人の元へ届けさせた。


 手紙の最後は、こう締めくくられていた。


「…サー・スターリングが我らイングランド商人の名誉を汚し、私腹を肥やしている間にも、我々は正直な商売を続けている。この不正義がいつか白日の下に晒されることを、一人の愛国者として願うばかりである」


 それは、敵に直接剣を向けるのではない。敵の群れの内部に「疑心暗鬼」という名の毒を静かに流し込む一手だった。


 一週間後。エドムンドのもとに、アゾレス諸島へ向かう途中のデュゲ=トルアンから最初の伝書鳩が届く。羊皮紙には、ただ一言こう書かれていた。


「羊の群れから、最初の数頭を頂いた。狼は腹を空かせている」


 エドムンドは、その手紙を燃やすと、窓の外に広がるリスボンの街並みを見下ろした。イングランド商館の中では、スターリングとそのライバルたちが互いに不信の目を向け始めている頃だろう。


 陸と海、二つの戦場で最初の砲火が上がった。リスボンの金を巡る、静かでしかし熾烈な戦争が、本格的に幕を開けた。

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