第四十六章 狼の牙
リスボンの「ハーグリーヴス商会」は、まだ港の倉庫街に間借りした、粗末な事務所だった。しかし、その一室で交わされる会話は、一国の運命を左右するほどの熱を帯びていた。
「……ポルトガル商人、アルメイダの倉庫だ」
ルネ・デュゲ=トルアンは、テーブルに広げられたリスボン港の見取り図の一点を、ナイフの先で示した。
「奴は、俺が捕まった時に、ポルトガル海軍から褒美代わりに、俺の船の積荷のほとんどを手に入れた。その中に、源八の『牙』も混じっていた。奴のことだ、きっと自慢のコレクションに加えているだろう」
「警備は?」エドムンドが尋ねた。
「夜間は十数人。腕は立つが、所詮は陸の兵隊だ。奇襲をかければ、赤子の手をひねるようなものさ」デュゲ=トルアンは、自信満々に言った。
「いや」エドムンドは、首を横に振った。「奇襲はしない。我々は、まだリスボンでは新参者だ。ここで騒ぎを起こせば、ポルトガル政府に目をつけられる。我々が欲しいのは、銃だけだ。敵を作るのは、まだ早い」
エドムンドの計画は、デュゲ=トルアンのそれとは全く違っていた。金も、派手な暴力も使わない。使うのは、情報と、タイミングだけだ。
彼は、数日をかけてアルメイダの倉庫を監視させ、警備員たちの交代時間、そして何より、アルメイダ本人が、毎週決まって愛人の元へ通う夜があることを突き止めていた。
その夜、アルメイダが愛人の家へと向かい、警備の気が最も緩む真夜中過ぎ。
デュゲ=トルアンと源八、そして数人の精鋭だけが、闇に紛れて、アルメイダの倉庫の裏口へと近づいた。鍵のかかった頑丈な扉。だが、源八は懐から取り出した数本の細い鉄の棒を鍵穴に差し込むと、まるで精密な時計を修理するかのように、静かに、そして正確に、内部の機構を探り当てていった。カチリ、という小さな音と共に、錠は開いた。
倉庫の奥、アルメイダの私的な陳室に、それは鎮座していた。
壁には、源八の最高傑作である「プロト・ミニエ銃」が、まるで絵画のように飾られている。
そして、部屋の中央には、異様な存在感を放つ、巨大な「固定式・長射程精密狙撃銃」が、砲架と共に鎮座していた。
源八は、二つの銃に駆け寄ると、まるで愛しい我が子に触れるかのように、その冷たい鋼の銃身を、そっと撫でた。彼の目には、初めて感情の色が宿っていた。
だが、感傷に浸る時間はなかった。彼らが銃を分解し、運び出そうとした、その時だった。運悪く、見回りに残っていた数人の警備員と、鉢合わせてしまったのだ。
警備員が、警笛を鳴らそうと口に手をやった、その瞬間。
闇の中から、閃光のようにデュゲ=トルアンが躍り出た。彼の抜き放ったカトラスが、月明かりを反射して、円弧を描く。警備員たちは、声を上げる間もなく、その場に崩れ落ちていた。
「……行くぞ」
デュゲ=トルアンの低い声に、一行は、巨大な銃の部品を分担して抱え、闇の中へと消えていった。
夜が明ける前、「ル・ヴァン」号の甲板に、源八は立っていた。彼の手には、奪還したばかりの「プロト・ミニエ銃」が握られている。彼は、慣れた手つきで銃を分解し、油を染み込ませた布で、一つ一つの部品を慈しむように磨き上げていた。
やがて、手入れを終えると、彼は夜明けの薄明りの中、一発の試射を望んだ。
デュゲ=トルアンが、遥か沖合に浮かぶ、海鳥の羽根を指さした。距離は、200メートル以上ある。風も吹いている。通常のマスケット銃では、狙うことさえ馬鹿げた標的だ。
源八は銃身を覗き込み、そっと弾を詰めた。手つきは鍛冶屋のそれで、一切の無駄がない。彼は布を指で硬く巻き、フリントに火を送り込む。火花が散り、空気を引き裂くような、鋭い音が走った。
夜気の向こう、波間に漂っていた海鳥の羽根が、跡形もなく消え去った。
甲板に立っていた船員たちが、息を殺した。エドムンドが頷くと、デュゲ=トルアンの顔に、満足げな笑みが戻った。
「……見ろ、ヘイル。小さな弾でも、真っ直ぐに突き刺されば、巨大な船に、致命的な穴を開けることができるのさ」
狼の牙は、今、確かにその主の手に戻った。
彼らの、本当の戦いが、始まろうとしていた。




