第四十四章 牢獄の狼
「ル・ヴァン」号を旗艦とするエドムンドの小船団が、ポルトガルの首都リスボンのテージョ川の河口にその姿を現した時、港は活気に満ちていた。いや、活気というよりは、熱病に近い狂騒に浮かされていた。
ここは、パリとは全く違う世界だった。ヴェルサイユ宮殿の計算され尽くした美意識や、冷たい陰謀の匂いはない。代わりに、日焼けした船乗りたちの怒声、酒場の騒々しい音楽、そして、誰もが追い求める一つのものの香りが渦巻いていた。金だ。
銀の時代は終わり、金の時代が始まろうとしている。エドムンドは、船の甲板からその熱気を肌で感じながら、自分が正しい場所に来たことを確信していた。
彼は、もはや「エドアルド・ヘリ」ではなかった。パリでの栄光も、フランス王室との因縁も、全てをテージョ川の濁流に捨て去った。彼は、亡き養父の名を継ぎ、「ハーグリーヴス商会、エドムンド・ヘイル」として、この新しい土地で再出発することを誓った。だが、彼の金庫は、ほぼ空だった。
彼が最初に向かったのは、商館でも、取引所でもなかった。
彼は、フィリップが最後に託してくれた、危険な希望の光を追っていた。
なけなしの金で、港の裏社会の情報屋から目的の男の情報を買うと、彼はその場所へと、一人で向かった。
テージョ川のほとりに立つ、古く、巨大な石造りの監獄「リムエイロ監獄」。
わずかな金貨で看守を買収し、光も届かぬ地下牢の最深部へ、彼は一人で降りていった。
鉄格子の向こうの暗闇に、男が一人、鎖に繋がれていた。長く伸びた髪と髭、汚れた衣服。だが、その瞳だけは、飢えた狼のように、ギラギラとした光を失っていなかった。
男は、鉄格子の前に立ったエドムンドを、値踏みするように見上げた。
「……あんたが、エドアルド・ヘリか。銀でスペイン帝国を出し抜いたという、あの伝説の男が、こんな臭いドブに何の用だ?」
その声は、長い虜囚生活にもかかわらず、絶対的な自信に満ちていた。彼こそ、伝説のフランス人私掠船長、ルネ・デュゲ=トルアンだった。
「その名は、フランスに捨ててきた」エドムンドは、静かに言った。「今の私は、ハーグリーヴス商会、エドムンド・ヘイルだ」
「クク……面白い」デュゲ=トルアンは、笑った。「名前を捨て、過去を捨て、それでもなお、あんたの周りには、金と危険の匂いがプンプンする。気に入ったぞ、ヘイル。それで、何の用だ?」
「あんたに、仕事の話をしに来た。私には、世界で最も速いフリゲート船が4隻ある。だが、それを率いる、世界で最も優れた提督がいない。あんたに、私の船団を任せたい」
デュゲ=トルアンは、その顔に初めて、本物の驚きと、歓喜の色を浮かべた。
「……面白い。気に入ったぞ、ヘイル! その話、乗った! だが……」
彼は、鉄格子の間から、エドムンドの目をじっと見つめた。
「……条件がもう一つある。この監獄の、さらに奥の独房に、もう一人、男が囚われている。そいつも、一緒に出す。いや、むしろ、そいつこそが、この取引の本当の『宝』だ」
デュゲ=トルアンは、声を潜めた。
「あいつを出せ。源八と呼ぶ。彼の持つ銃一丁で、海の流れは変わる。だが、あれはただの道具じゃねぇ。あれを持つ者の眼で、狙われた者は死を見るだけだ」
「……分かった。その条件、飲もう」エドムンドは即座に答えた。「それで、どうやって、我々をこの石の棺桶から出すんだ?」
「金で解決する奴は三流だ」デュゲ=トルアンは、不敵に笑った。「ここの所長には、秘密がある。奴は、処刑されるはずだった重罪人を、記録を偽って、密かにアルジェの奴隷商人に売り飛ばしている。その証拠を掴め。そうすれば、金など一銭も使わずに、奴は俺たちを王様のように、表門から送り出すだろう」
リスボンの薄暗い地下牢で、二人の伝説が出会った。
一人は、全てを失った、天才的な策略家。
もう一人は、自由を奪われた、天才的な海の将。
彼らの最初の共同作業は、「情報」を武器とした、危険な脅迫計画から始まることになった。




