第四十三章 三叉路
エドムンドが仕掛けた、水面下での買収工作は、完璧な成功を収めた。
彼が最後の切り札であるアルコス公爵を味方につけたことで、マドリードの宮廷内の勢力図は、決定的にブルボン家へと傾いた。カルロス2世が崩御し、その遺言状が公開された時、オーストリア・ハプスブルク家の抵抗は、もはやほとんど意味をなさなかった。
アンジュー公フィリップ殿下が、新国王「フェリペ5世」として、マドリードの玉座に迎え入れられたという報せがパリに届いた時、街は祝賀ムードに包まれた。
だが、その勝利の立役者である「ヘリ&ヴァレリー商会」の書斎に、祝杯はなかった。
エドムンドは、空になった金庫の最後の帳簿を閉じた。スペイン貴族たちを懐柔するために、彼は銀で得た利益の、その残り二割の全てを費やしていた。彼は、莫大な富と引き換えに、フランスに一つの帝国をプレゼントしたのだ。
その日の午後、財務卿コルベールの後継者である、ポンシャルトラン侯爵が、彼の書斎を訪れた。
「ヘリ殿。君の功績には、陛下も大変満足しておられる」
男は、蛇のような目で、エドムンドを見つめた。
「つきましては、君には生涯、我がフランスのために、その類稀なる才覚を振るってもらいたい。王室直属の、新しい交易公社の総裁としてな」
それは、栄誉の提案に見せかけた、終身刑の宣告だった。
「……もし、お断りしたら?」
「賢明ではあるまい」男は、一枚の古い羊皮紙の写しを、テーブルの上に置いた。「我々の諜報網は、優秀でね。これは、十数年前にロンドンで発行された、ある放火犯への逮捕状だ。エドムンド・ヘイルという、イングランド人の……」
エドムンドの全身から、血の気が引いた。フランスは、全てを知っていたのだ。そして、その過去を鎖として、彼を永遠にフランスに縛り付け、利用し続けようとしている。
「我々は、君の汚れた過去を洗い流してやろう。その代わり、君のその素晴らしい才能は、未来永劫、フランスのために捧げてもらう」
その夜、書斎には、三人の男たちが集まっていた。エドムンド、トマス、そして、血相を変えて王宮から駆けつけたフィリップ。
エドムンドは、フランスからの裏切りを、静かに二人に語った。
最初に口を開いたのは、トマスだった。
「……私の復讐は、終わった。ハプスブルクのスペインは、もういない」彼は、立ち上がると、エドムンドの肩に手を置いた。「私は、もう十分に戦った。これ以上は、私の戦いではない。ロンドンへ帰り、静かに暮らすよ。君がもし、助けが必要なら、いつでも言ってくれ。だが、国家を相手にした戦いからは、私は降りる」
彼の声には、やり遂げた男の、静かな決意があった。
次に、フィリップが、苦悩に満ちた表情で口を開いた。
「エドムンド……これは、フランスの恥だ。我が家の名誉にかけて、君を守る。王に直訴し、この不正を……」
「やめろ、フィリップ」エドムンドは、静かに彼を制した。「君は、フランスの貴族だ。王の決定に逆らえば、それは反逆罪になる。君には、君の守るべき国と、民がいるはずだ」
「だが、君は私の友だ!」
「だからこそだ」エドムンドは、初めて、そして最後に、友に本心を明かした。「私は、エドアルド・ヘリではない。イングランド人、エドムンド・ヘイルだ。君の国と、私の国は、これから戦争になるだろう。君は、フランスの軍人として、敵である私を、これ以上庇うことはできない」
フィリップは、唇を噛み締め、涙をこらえた。友情と、祖国への忠誠。その間で、彼の心は引き裂かれていた。
「……私は、軍人として、スペインへ向かう。それが、私がヴァレリー家として、そして君の友人として、唯一取れる、道だ」
三人の道は、ここで分かれた。
一人は、復讐を終え、過去へと帰る。
一人は、祖国への義務を果たすため、戦場へと向かう。
そして、一人は、再び全てを捨て、未知の未来へと逃れる。
フィリップは、部屋を出て行こうとするエドムンドの腕を、最後に掴んだ。
「エドムンド、待ってくれ。一つだけ、言い残したことがある」
彼の声は、真剣だった。
「君がこれから生き抜く世界は、宮廷よりも、もっと無法な場所だ。君には、今の君が持っていない種類の力が必要になる……牙を剥く、狼のような力が」
「……どういう意味だ?」
「リスボンへ行け」フィリップは、低い声で言った。「あそこのリムエイロ監獄には、一人の男が囚われている。我がフランスが生んだ、最高の船乗りにして、最悪のならず者……ルネ・デュゲ=トルアンという、伝説の私掠船長だ」
エドムンドも、その名は聞いたことがあった。海では悪魔のように恐れられている男だ。
「彼は、数年前にポルトガル海軍に敗れ、囚われている。だが、その牙は、まだ折れてはいないはずだ。もし、君が彼を解放することができれば……彼は、君の最強の剣となるだろう。私では、決して持つことのできない剣だ」
フィリップは、エドムンドの手を固く握った。
「これは、君に託す、私の最後の賭けだ。行ってくれ、友よ。そして、生き延びてくれ」
その夜、エドムンドは残された4隻のフリゲート船団と共に、夜陰に紛れてフランスを脱出した。
船長が尋ねる。
「どこへ向かいますか、船長?」
エドムンドは、パリの灯りから目を離し、暗い大西洋を見つめた。
「進路を、南へ。リスボンだ」
彼の脳裏には、友が最後に託してくれた、危険な希望の光が、はっきりと見えていた。




