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第四十二章 遺言

「カルロス2世陛下、ご危篤」。


 その報せは、ヨーロッパ中の宮廷を駆け巡り、パリの作戦司令室にも、かつてないほどの緊張をもたらした。エドムンドたちが何か月もかけて動かしてきた、水面下の無数の駒たちが、今、一斉に、最後の審判の時を待っている。


「……間に合ったのか、それとも、まだ足りないのか」


 フィリップが、青ざめた顔で、壁の勢力図を見つめていた。親フランス派を示す青い駒は、マドリードの宮廷地図の半分以上を覆っていた。だが、宰相ポルトカレーロ枢機卿や、アラゴン地方の大貴族たちといった、鍵を握る数人の大物の動向が、まだ掴めていなかった。


「もう、我々の手で打てる手は、ほとんどない」トマスが静かに言った。「あとは、我々が蒔いた種が、マドリードの密室で、どのような花を咲かせるかを見届けるだけだ」


 エドムンドは、黙って窓の外を見ていた。彼が動かしたのは、金と、情報だった。だが、最後に人の心を決めるのは、金でも情報でもない。恐怖、野心、そして、誇りだ。果たして、自分たちの仕掛けは、スペイン大貴族たちの、その複雑な心を、完全に手懐けることができただろうか。


 一週間後。マドリードから、一羽の鳩が飛んできた。それは、ナフマンの諜報網が、スペイン宮廷の混乱の最中に、命がけで手に入れた情報だった。


 書斎に、三人の男たちの、息を詰めるような沈黙が落ちる。


 フィリップが、震える手で、その小さな羊皮紙の封を切った。


 そこには、走り書きのような、たった二行の文章だけが記されていた。


「王は崩御。


 遺言により、アンジュー公フィリップ殿下が、新国王『フェリペ5世』に指名さる」


「……やった」


 最初に声を発したのは、フィリップだった。その声は、喜びよりも、安堵に満ちていた。「我々は、勝ったのだ……!」


 トマスは、ゆっくりと目を閉じ、深く、長い息を吐いた。彼の顔には、数十年に及ぶ復讐の旅を終えた男の、静かな、そして底知れないほどの疲労感が浮かんでいた。


 エドムンドは、窓の外へと視線を戻した。パリの街は、何も変わらない日常を続けている。だが、今この瞬間、世界の勢力図は、歴史上、誰も見たことのない形で、根底から塗り替えられたのだ。戦争をすることなく、一滴の血も流すことなく、ただ、金と、情報と、人間の欲望を操ることで。


 彼は、まだ実感の湧かない、この巨大な勝利の意味を、静かに噛み締めていた。


 自分は、今や、一つの帝国の誕生を裏から操った男となった。


 だが、物語はまだ終わらない。


 新しい王の誕生は、必ずや、古い秩序を守ろうとする者たちの、激しい反発を呼ぶだろう。特に、王位継承に敗れたオーストリア・ハプスブルク家が、このまま黙っているはずはなかった。


 エドムンドは、これから始まるであろう、さらに大きな混乱の予兆を、パリの空の向こうに、確かに感じていた。


 彼の戦いは、まだ始まったばかりだったのかもしれない。

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