第四十章 王冠の値段
パリの「ヘリ&ヴァレリー商会」の書斎は、今やヨーロッパで最も静かな、そして最も強力な司令室と化していた。トマスは、復讐の完了と共にロンドンへ戻る準備を進めていたが、この新しい、あまりにも巨大なゲームの最初の駒が動くまでは、とパリに留まっていた。
「問題は、どこから手をつけるかだ」
フィリップが、テーブルに広げられたスペイン貴族の家系図と勢力図を指さしながら言った。
「カルロス2世亡き後はスペインを動かすのは、一握りのグランデ(大貴族)たちだ。彼らの支持なくして、アンジュー公殿下(後のフェリペ5世)の即位はあり得ない」
地図の上には、親フランス派、親オーストリア派、そして、最も重要な、日和見主義者たちの名が記されていた。
「金で動く者もいれば、名誉を重んじる者もいる。そして、その両方でなければ動かせぬ、強欲で誇り高い者もいる」
トマスは、長年の研究で得た、スペイン貴族たちの心理を分析してみせた。
エドムンドは、黙って彼らの議論を聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「我々が最初に狙うべきは、最も強欲な者でも、最も貧しい者でもない。最も、尊敬されている者だ」
彼は、地図の上の一人の男の名を、指でなぞった。
「アルコス公爵。アンダルシアの王とまで呼ばれる、清廉潔白で、誰からも尊敬される大貴族。……そして、その清廉さゆえに、一族の財政は火の車のはずだ」
フィリップは目を見開いた。「アルコス公爵を? 正気か、エドムンド。彼は、金で動くような男では決してない。下手に接触すれば、侮辱されたと激怒し、我々の最大の敵になるぞ」
「だからこそ、金で誘ってはダメなのだ」エドムンドは答えた。「彼が最も望むもの。それは、金ではない。一族の『名誉の回復』だ」
彼は、自分の計画を語り始めた。それは、単純な買収ではなかった。アルコス公爵の一族がかつて失った土地を、エドムンドの資金で買い戻し、「事業投資」の名目で、公爵に「返還」するという、遠回しで、しかし相手のプライドを最大限に尊重した、巧妙な一手だった。
数週間後。マドリードにあるアルコス公爵の古い屋敷に、一人の男が訪れていた。彼は、ナフマンのネットワークに連なる、セファルディムの血を引く、熟練の交渉人だった。彼は、エドムンドの名を一切出さず、ただ「ヨーロッパの新しい交易の秩序を望む、ある偉大な商人からの提案です」とだけ告げた。
「……ヘリ殿は、我がヴァレリー家が、かつてアンダルシアに所有していた土地を、現在の所有者から買い戻したい、と? そして、その土地の管理を、全て我らにお任せくださると? 見返りは……将来、スペインとフランスの交易が円滑に進むよう、我らが『友人』となること、ただそれだけだと?」
アルコス公爵は、信じられないという顔で、交渉人の言葉を繰り返した。
それは、賄賂ではなかった。それは、誇り高い大貴族が、その名誉を一切傷つけられることなく、実利を得ることができる、唯一の方法だった。
交渉人は、静かに付け加えた。
「我が主は、こうも申しておりました。『来るべき新しい時代に、スペインの最も高潔な魂を持つヴァレリー家が、その本来あるべき姿を取り戻すことこそ、ヨーロッパ全体の利益となる』と」
公爵は、長い沈黙の後、ただ一言だけ、呟いた。
「……そのヘリ殿とやらに、お伝え願いたい。友人からの、高潔な申し出に、感謝する、と」
パリの司令室に、マドリードからの勝利を告げる暗号文が届いた時、フィリップはエドムンドの手を固く握った。
「……信じられん。君は、あのアルコス公爵を、金貨一枚見せずに、味方につけてしまった」
エドムンドは、静かに地図の上にあるアルコス公爵の駒を、親フランス派の陣営へと動かした。
「全ての人間には、値段がある。ただ、その通貨が、必ずしも金貨とは限らないだけだ」
最初の、そして最も難しい駒が、動いた。
エドムンドは、次の標的のリストへと、目を移した。
王冠の値段を決めるための、静かで、しかし壮大な買収劇が、今、始まった。




