第三十九章 獅子の分け前
経済戦争が終結して一ヶ月後。「ヘリ&ヴァレリー商会」の会計室は、不眠不休で動き続けていた。ヨーロッパ中の銀行から届く膨大な決済報告書と、山のような銀の現物の所有権を証明する証書の束を前に、熟練の会計士たちでさえ、眩暈を覚えていた。
エドムンドは、執務室で、一枚の羊皮紙にまとめられた最終的な利益総額を見て、静かに息を呑んだ。それは、フランス一国の一年分の国家予算に匹敵する、天文学的な数字だった。
だが、その数字は、すぐに分配されていく。
エドムンドは、パリで最も信頼の厚い銀行家を呼び寄せると、震える手でその数字を見つめる会計士たちの前で、淡々と指示を出し始めた。
「まず、利益の半分を。コルベール閣下との密約通り、フランスの国庫へ」
彼は、パリの銀行家が振り出す、複数の為替手形に、震えることのない、力強いサインを書き込んでいく。その一枚一枚の羊皮紙が、アルプスを越え、海を越え、一つの帝国の富を、静かに動かしていった。
「次に、三割を、我々の盟友、ナフマン殿へ」
アムステルダムとヴェネツィアにいる、ナフマンが指定した銀行家宛てに、同様に為替手形が切られていく。
エドムンドとトマスの手元に残ったのは、全体の二割。それでもなお、一国の王に匹敵するほどの莫大な富だったが、彼はこの勝利が、自分一人だけのものではなかったことを、改めて実感していた。
その日の午後、フィリップが、王宮からの帰路、彼の書斎を訪れた。
「……どうやら、君の取り分(獅子の分け前)も、すぐに次の戦の軍資金となりそうだ」
フィリップは、疲れたように言いながら、エドムンドに王の意向を伝えた。スペイン王位継承への、裏からの支援要請だった。
エドムンドは、一つ、根本的な疑問を口にした。
「フィリップ。私には理解できない。なぜ、私なのだ? ルイ14世は、ヨーロッパで最も裕福な王だろう。彼が自らの金でスペイン貴族を買収すれば済む話ではないのか?」
フィリップは、苦笑いを浮かべた。
「その通り。フランス政府は、君が稼いだ金よりも、遥かに多くの金を持っている。だが、その金には、『フランス国王の印』が押されているのだよ」
彼は、エドムンドに真実を語った。
「もし、フランスの外交官が、マドリードで金の袋を持って歩いているところを見つかれば、どうなる? オーストリアをはじめ、ヨーロッパ中の国々が、『フランスが、その富でスペインを乗っ取ろうとしている!』と騒ぎ立て、大同盟を組んで、我々に宣戦布告してくるだろう。そうなれば、全面戦争だ」
フィリップは、エドムンドの目をまっすぐに見た。
「だが、『独立したジェノヴァ商人、エドアルド・ヘリ氏』が、スペインの有力貴族に、破格の条件で『事業投資』を持ちかけたり、見返りを求めずに『貸付』を行ったりするのは、どうかな? それは、ただの『商取引』だ。誰も、文句は言えん」
エドムンドは、全てを理解した。
国王が彼に求めているのは、彼の「金」だけではない。彼が持つ、「フランス政府とは無関係の商人」という、絶妙な立場そのものだったのだ。彼は、国家間の汚い戦争を、代理で行うための、最も都合の良い「手」として、選ばれたのだ。
「……つまり、私は、太陽王の『影の財務卿』になれ、というわけか」
「そして、成功の暁には、新しいスペイン王を友人に持つ、ヨーロッパ最強の商人になれる」
エドムンドは、窓の外を見た。彼が手に入れた富と名声は、彼を自由にしたのではなかった。彼を、さらに大きく、さらに危険な、国家間のゲームの盤上へと、引きずり込んでいたのだ。
彼は、静かに頷いた。もはや、このゲームから降りるという選択肢は、彼にはなかった。




