第三十五章 嵐の目
雪崩は、一度起きれば、誰にも止められない。
スペイン王室という巨大な買い支えが、市場全体のパニック売りという津波の前に飲み込まれ、力尽きるまで、三日とかからなかった。マドリードからの買い注文が途絶えた瞬間、ヨーロッパ中の銀相場は、もはや底のない奈落へと、垂直に落下し始めた。
「アムステルダム、前日比マイナス15パーセント!」
「ヴェネツィア、取引停止!」
「フランクフルト、主要な両替商が破産!」
パリの作戦司令室には、ナフマンのネットワークから、各地の市場の断末魔のような報告が、次々と舞い込んでくる。部屋の壁を埋め尽くした巨大な帳簿の上で、書記官たちが震える手で、絶望的な下落を示す数字を書き込んでいった。市場は、恐怖と混乱の極みに達していた。
その混沌の渦の中心で、ただ二人、静かにその様を眺めている男たちがいた。
エドムンドと、トマスだ。
トマスは、市場が完全に底を打ち、もはや誰もが銀をただの石ころ同然だと見なし始めた瞬間を、冷静に見極めていた。彼は、血のように赤いワインが注がれたグラスをゆっくりと回しながら、ついに、その言葉を口にした。
「……潮が、引いたな」
彼は、エドムンドの方を見た。その目は、命令ではなく、問いかけていた。「準備はいいか?」と。
エドムンドは、その視線に、静かに、しかし力強く頷き返した。言葉は、もはや不要だった。
その頷きが、合図だった。
エドムンドは、司令室の隣に設けられた、もう一つの部屋へと移動した。そこには、彼が最も信頼する十数人の部下たちが、ペンと羊皮紙の契約書を前に、固唾を飲んで待機していた。
エドムンドは、部屋の中央に立つと、嵐の中の船長のように、次々と、しかし冷静沈着に、命令を下し始めた。
「ジャン=リュック! アムステルダムの代理店へ、最速の伝令を。メディチ銀行の信用枠を使い、市場に出回る全ての銀を、1マルクあたり15フローリンを上限に、全て買い付けろ!」
「ピエール! ジェノヴァへ。ロンバルディアのシンジケートを通じて、現物を確保。上限は1ポンドあたり10リーヴルだ!」
「クロード! ヴェネツィアの取引が再開した瞬間に動け。我々の全ての資金を投入しろ。いいか、全てだ!」
部屋は、一瞬にして戦場と化した。書記官たちが猛烈な勢いで買い注文を書き、封蝋をし、待機していた伝令たちが、次々と部屋を飛び出していく。
「ヘリ&ヴァレリー商会」という名の、巨大で、そして見えざる金融機械が、今、ヨーロッパ全土を対象に、その巨大な口を開けたのだ。
その後の数日間、ヨーロッパの金融市場は、新たな混乱に見舞われた。
あれほど溢れていた銀の売り注文が、まるで乾いた砂が水を吸うように、忽然と消えていったのだ。誰かが、正体不明の、しかし無限と思われるほどの資金力を持つ「誰か」が、市場の底で、売りに出された全ての銀を、静かに、そして完全に吸い尽くしていた。
価格の暴落は、止まった。
だが、市場を支配したのは、安堵ではなかった。自分たちが投げ売った銀が、今や、たった一人の買い手の手に渡ってしまったという、新しい、そしてより根源的な恐怖だった。
パリの作戦司令室は、嵐の後のように、静まり返っていた。
エドムンドとトマスの前には、新しい帳簿が置かれていた。それはもはや価格の一覧ではなかった。ヨーロッパの主要な銀行と倉庫に保管されている、彼らが所有する銀の、膨大な資産目録だった。
フィリップが、青ざめた顔でその数字を見ていた。
「……神よ。エドムンド、君は、ヨーロッパ中の銀の半分近くを、手に入れたことになる……」
「ああ」エドムンドは、極度の緊張と疲労で、かすれた声で答えた。「そして、我々の全財産を、この輝く石ころに変えた、ということでもある」
トマスは、満足げに微笑んだ。
「戦争の第一幕は、我々の勝利だ。我々は、敵の兵糧を、一粒残らず奪い取った」
彼は、窓の外を見つめた。
「さて、第二幕の始まりだ。これから、この石ころを、ダイヤモンドよりも高く売りつけてやろうじゃないか」
彼の言葉は、「リディア王国の嘘話」を、次の段階へと進める合図だった。
市場から銀を消し去った後、今度は、その価値を天まで吊り上げるための、最後の仕上げが、始まろうとしていた。




