第三十六章 マドリードの眩暈
マドリードの王宮、エスコーリアル。
スペイン帝国財務顧問、メディナ・シドニア公爵の執務室は、まるで敗戦前夜の司令部のようだった。ヨーロッパ各地に配置した代理人からの、パニックに満ちた報告書が、黒檀の机の上に山をなしていた。
「アムステルダムより緊急報告! 銀価格、原因不明のまま暴落中! 市場は『リディア』の噂で麻痺状態に!」
「ヴェネツィアにて、当国の銀行家が取り付け騒ぎに遭い、破産!」
「セビリア港、新大陸より到着した銀を積んだガレオン船団、その積荷の価値が、出航時の半分以下に……!」
メディナ・シドニア公爵は、こめかみを指で押さえながら、腹心たちと地図を睨みつけていた。
「……一体、誰が仕掛けている?」
彼の声は、疲労でかすれていた。
「イングランドか? いや、あの島国に、これほどの大陸規模の作戦を遂行する力はない。オランダか? 奴らは商人だ。市場を破壊するような、自滅的な真似はせん」
誰もが、見えざる敵の巨大さに、ただ恐怖していた。まるで、ヨーロッパ全土が、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られていくかのようだった。
その時、一人の秘書官が、封蝋も生々しい一通の緊急書簡を手に、部屋へ駆け込んできた。パリにいる、スペイン諜報網の長からの、最高機密文書だった。
公爵は、震える手で封を切ると、その中身に目を通した。そして、彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
「……そうか」彼は、乾いた声で呟いた。「そういうことだったのか……」
彼は、腹心たちに向かって、書簡を読み上げた。
「……『パリにおける銀市場の混乱は、ただ一社、新興の「ヘリ&ヴァレリー商会」の動きと完全に連動しております。この商会は、先ごろ太陽王の庇護を取り付けた、例の『闘魚の商人』エドアルド・ヘリが主宰するもの。
彼の共同経営者は、フィリップ・ド・ヴァレリー。フランスにおけるユグノー(プロテスタント)の有力貴族であり、かつてサン・バルテルミの虐殺で一族の多くを失った、旧来より熱烈な反カトリック、反スペイン派として知られる、あのヴァレリー家の末裔にございます。
さらに、ヘリ氏が確保した莫大な資金の背後には、サロニカのユダヤ商人、ナフマンの影が見え隠れするとの情報も……』」
部屋は、死のような静寂に包まれた。
点と点が、繋がり、恐るべき線となった。
フランス王室の庇護。
スペインを憎む、フランス貴族。
そして、ヨーロッパの地下経済を牛耳る、ユダヤのネットワーク。
その全てを、たった一人の男が、結びつけている。
犯人は、イングランドでも、オランダでもなかった。全ての混乱は、パリにいる、たった一人の「商人」が、その指先で操っていたのだ。
「……やられた」メディナ・シドニア公爵は、椅子に深く身を沈めた。「我々は、存在しない王国の亡霊に怯え、その隙に、心臓を抉り取られたのだ」
彼は、顔を上げた。その目には、もはや混乱はなかった。残っていたのは、敗北を認めた者の、冷たいほどの静けさだけだった。
彼は、秘書官に命じた。
「パリの大使館へ、緊急の伝令を送れ」
彼の声は、部屋の隅々にまで響き渡った。
「駐仏大使、バルバセーナ侯爵に伝えよ。何としても、商人エドアルド・ヘリとの面会を取り付けろ、と」
彼は、一瞬、言葉を区切った。
「……いかなる条件を飲んででも、だ」
帝国のプライドは、砕け散った。
マドリードは、今や、パリにいる一人の商人の慈悲に、その運命を委ねるしかなくなっていた。




