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第三十四章 雪崩

 噂という名の毒は、ゆっくりと、しかし確実にヨーロッパの経済という名の巨人の体内に浸透していった。最初の数週間、市場は静かだった。銀の価格は、ほとんど目に見えないほどの緩やかな下降を続けた。それは、嵐の前の、不気味なほどの静けさだった。


 パリの作戦司令室で、エドムンドは日に日に焦りを募らせていた。


「まだだ、トマス。これでは、ただの市場の気まぐれだ。スペインを動かすほどの力はない」


「待て、エドムンド」トマスは、壁に広げられた巨大な帳簿を睨みながら、静かに言った。「今は、まだ種を蒔いただけだ。これから、芽を出させ、恐怖という名の水をやらねばならん」


 トマスは、ナフマンのネットワークを通じて、第二の矢を放つよう指令を出した。それは、より具体的で、より信憑性のある、巧妙に作り込まれた嘘だった。


 アムステルダム。


 ある日、港湾事務所の書記官が、奇妙な船荷証券の写しを「誤って」酒場で紛失した。それを拾った商人が目にしたのは、「リディア復興コンソーシアム」という名の謎の組織が、「イズミルトルコからアントワープへ」、大量の銀鉱石を輸送するという、詳細な契約内容だった。その積荷の量は、スペインの新大陸艦隊が一年で運ぶ量に匹敵していた。


 ロンドン。トマスの古巣、ロイド・コーヒーハウス。


 高名な保険引受人アンダーライターが、スペイン銀貨を積んだ船への海上保険の引き受けを、公の場で拒否した。「東地中海の地政学的リスクは、もはや計測不能だ」というのが、その理由だった。


 これらの新しい「事実」は、市場に漂っていた漠然とした不安を、具体的な恐怖へと変えた。銀の価格の下落が、始まった。それは、まだ緩やかな坂道だったが、止まる気配はなかった。


 マドリード。スペイン王宮。


 財務顧問の元には、パニック寸前の報告が、ヨーロッパ中から殺到していた。


「銀価格が、過去三日で五パーセント下落!」


「ロンドンの保険組合が、スペイン船への保証を拒否!」


「リディアの銀は、本物だとの噂が、市場を支配しつつあります!」


 もはや、傍観は許されなかった。財務顧問は、国王の裁可を得て、国家の威信をかけた決断を下した。


「王室銀行の名において、市場介入を開始せよ! 市場に出回る銀を買い支え、投機家どもの狼狽売りを止めさせ、銀の絶対的な価値を、世界に改めて知らしめるのだ!」


 パリの作戦司令室。


 エドムンドの前の帳簿に、新しい数字が書き込まれた。それは、アムステルダムとアントワープの市場で、スペイン王室系列の銀行による、巨大な銀の買い注文が入ったことを示すものだった。


「……ついに動いたな」エドムンドは、低い声で言った。「スペインが、買い支えに入った」


 トマスは、その報告を聞いても、表情一つ変えなかった。彼は、まるでチェスの名人が、相手が完全に自分の読み通りに駒を動かしたのを見るかのように、静かに頷いた。


「獣が、罠にかかったことに気づき、暴れ始めた」


 彼は、立ち上がると、エドムンドの肩に手を置いた。


「スペインという巨大な買い手が現れたことで、まだ銀を保有していた、最後の日和見主義者たちが、一斉に売りに走るだろう。雪山の頂上で、巨人が足を踏み鳴らしたのだ。これから、本物の雪崩が起きる」


 彼は、エドムンドの目を、まっすぐに見た。


「そして、その雪崩が全てを飲み込み、静まり返った谷底に、ただ一つの宝が残る。エドムンド。その宝を拾うのは、君の役目だ。準備はいいな?」


 エドムンドは、固く頷いた。彼の全身の血が、沸騰するような興奮に満ちていた。


 人生で、最大で、最も危険な買いの時が、すぐそこまで迫っていた。

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