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第二十六章 パリの迷宮

 マルセイユで蒔かれた噂の種が、パリの宮廷まで届くには、時間が必要だった。エドムンドとフィリップは、その間にマルセイユでの商売を現地の代理人に任せ、満を持してフランスの心臓部、パリへと向かった。


 パリは、エドムンドがこれまで見てきたどの都市とも異なっていた。それは、巨大な権力と、洗練された文化、そして底知れぬ陰謀が渦巻く、壮麗な迷宮ラビリンスだった。彼らは、フィリップの家名を使って、サンジェルマン地区に優雅な屋敷を借り、そこを拠点として活動を開始した。


 フィリップは、すぐさま宮廷にいる旧知の友人たちに手紙を書き、自らの帰還と、類稀な商人エドアルド・ヘリを伴っていることを知らせ、然るべき人物への紹介を求めた。


 エドムンドは、マルセイユでの成功に、内心、自信を深めていた。これほどの切り札(闘魚)と、大貴族の友人フィリップがいるのだ。国王への謁見も、そう時間はかからないだろう、と。


 だが、彼の期待は、パリの分厚く、そして冷たい壁の前に、脆くも打ち砕かれた。


 数日が過ぎ、数週間が過ぎても、彼らの元に届くのは、丁重だが内容のない返事ばかりだった。


「財務卿閣下は、国家予算の審議で大変お忙しく……」


「王立アカデミーで新種の生物を披露するには、まず詳細な論文の提出が……」


「王妃様の御機嫌が麗しくなく、今は新しい見世物など……」


 エドムンドは、次第に苛立ちを隠せなくなっていた。


「どうなっているんだ、フィリップ」ある夜、彼はついに不満をぶちまけた。「我々は、海を越え、嵐を乗り越え、幻の魚まで手に入れた。それなのに、やっていることと言えば、この屋敷で、来もしない招待状を待つだけか! オスマンの商人の方が、よほど話が早い!」


 フィリップは、ため息をついた。


「ここが、君の知る世界とは違う場所だからだよ、エドムンド。ここはパリだ。ここでは、物事の価値は、そのもの自身が持つ輝きだけでは決まらない。『誰が、それを王に披露するに値すると判断したか』で決まるのだ」


 彼は、エドムンドに、この迷宮の地図を広げてみせた。


「我々が王に会うには、まず、門番たちの許可を得なければならない。一人目は、財務卿コルベール。彼にとって、我々の魚は『フランスに利益をもたらすか』という観点でしか見られていない。二人目は、王立アカデミー。彼らにとって、魚は『分類すべき学術的対象』だ。そして三人目……これが最も厄介なのだが……宮廷の有力者たちだ。彼らにとっては、魚は『自らの地位を高めるための道具』に過ぎない」


 エドムンドは、黙ってフィリップの言葉を聞いていた。彼は、全く新しい戦場に立っていることを、ようやく理解した。ここは、船の速さや、剣の腕、金の力だけで勝てる世界ではない。人間の虚栄心、嫉妬、そして権力欲が複雑に絡み合った、蜘蛛の巣のような世界だ。


 彼の目から、焦りの色が消えた。代わりに、かつてヴェネツィアやコンスタンティノープルの市場で見せた、冷徹な分析者の光が宿った。


「……分かった」彼は静かに言った。「正面の門が閉ざされているなら、横の通用口を探すまでだ。その門番たちについて、もっと詳しく教えてくれ、フィリップ。彼らの習慣、彼らの敵、そして……彼らが最も喜ぶ『賄賂』とは、一体何なのかを」


 エドムンドは、パリという巨大な迷宮の攻略法を、ようやく見出し始めていた。


 それは、力で壁を打ち破ることではない。壁の構造そのものを理解し、その隙間を縫うように、静かに、しかし確実に、中心へと進むことだった。

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