第二十五章 マルセイユの第一印象
地中海の太陽が、マルセイユの古い石造りの街並みを蜂蜜色に染めていた。
フリゲート船「ル・ヴァン」が、その黒く鋭い船体を港へ滑り込ませると、埠頭にいた人々から驚きと好奇の声が上がった。これほどまでに洗練され、快速を誇示する船は、この地中海の古い港では珍しい。
案の定、すぐさま港の役人たちが、物々しい態度で船に乗り込んできた。彼らは、異国の船と、見慣れぬ船長であるエドムンドを、猜疑心に満ちた目で尋問し始めた。
「船籍はジェノヴァ、船長はエドアルド・ヘリ。積荷は……東洋の香辛料、陶磁器、そして……『生きた標本』だと? 怪しい。全て開けて、中身を改めさせてもらう」
その時、今まで黙ってエドムンドの後ろに控えていたフィリップが一歩前に出た。彼は、長旅の間、大切に保管していた、ヴァレリー家の紋章が入った、フランス貴族の衣服を身につけていた。
「無礼であろう。私は、フィリップ・ド・ヴァレリーだ」
その名を聞いた途端、役人たちの尊大な態度は、驚きと、そして慌てふためいたような媚びへと変わった。ヴァレリー家は、南フランスでは絶大な影響力を持つ、大貴族だったのだ。
「こ、これはヴァレリー様! ご無事でしたか! 一体、このような船でどこから……」
「話せば長くなる。この船の船長、エドアルド・ヘリ氏は、我が命の恩人であり、ヴァレリー家が賓客として遇するお方だ。彼と、彼の船、そして積荷の一切は、我がヴァレリー家の保護下にあるものと心得よ」
フィリップの、生まれながらにして身についた権威に満ちた声に、役人たちはひれ伏さんばかりに頭を下げた。
検査は、形だけのものになった。だが、責任者である恰幅の良い港湾長だけは、職務への忠誠心か、あるいは単なる好奇心か、エドムンドの船長室へ通され、積荷の目録に目を通していた。
「……素晴らしい品揃えですな、ヘリ殿。シャム産の絹に、見事な陶磁器……」
彼は、エドムンドが差し出した上質なワインを一口飲むと、探るような目で尋ねた。
「して、この『生きた標本』とは、一体……?」
エドムンドは、待ってましたとばかりに微笑んだ。彼は、賄賂として金貨の袋を渡すような、無粋な真似はしなかった。
「長官。まずはこれを、日頃の激務への感謝の印としてお受け取りください」
彼が差し出したのは、ビロードの小袋に入った、一握りの紫色の粉末だった。
「シャムの王室でしか使われていない、特別な染料です。貝殻の内側の輝きを、布に写し取ることができるとか」
港湾長の目が、強欲な輝きを放った。これだけで、彼の数年分の給金に相当する価値があった。
「……して、先ほどの標本だが」彼は咳払いをして、話を戻した。
「ああ、あれは私の個人的な趣味でして」
エドムンドは、部下に合図をして、一つの美しいガラスのゴブレットを運ばせた。中には、瑠璃色の小さな魚が、優雅に漂っている。
「シャムの王宮の池にしかいないという、珍しい魚です」
港湾長は、その宝石のような美しさに、ほう、と息を漏らした。だが、それだけでは、彼の心を本当に動かすには足りない。
エドムンドは、おもむろに小さな手鏡を取り出すと、ゴブレットの横に置いた。
次の瞬間、信じられない光景が起きた。
鏡に映った自分の姿を敵と認識したのか、それまで優雅に泳いでいた魚は、全身の鰭を炎のように逆立て、鮮烈な闘争の色を漲らせた。瑠璃色は、まるで内側から光を放つかのように輝き、エラを威嚇するように広げたその姿は、もはや魚ではなく、ガラスの中に封じ込められた、獰猛な戦士の魂そのものだった。
「こ……これは……!」
港湾長は、椅子から転げ落ちんばかりに驚き、言葉を失った。彼はこの港で、世界中のありとあらゆる珍品を見てきた。だが、これほどまでに、美と暴力が、静と動が、完璧な形で共存している生命を見たことは、生まれて初めてだった。
「残念ながら、この一匹は、ある高貴な方への贈り物でして」
エドムンドは、手鏡をしまいながら言った。「ですが、この染料が、長官の奥方様をお慰めできれば幸いです」
その日の午後、港湾長は上司であるマルセイユ地方総督の元へ、文字通り駆け込んでいた。彼は、賄賂として受け取った染料のことなど忘れ、興奮しきった様子で、こう報告した。
「総督閣下! 大変です! ジェノヴァから来た商人が……ヴァレリー様を連れたあの男が……生きた宝石を、いえ、グラスの中で戦争をする戦士を連れてきましたぞ!」
最初の噂の種は、蒔かれた。それは、エドムンドが計算した通り、金貨よりも遥かに雄弁に、パリの宮廷へ向かって、ゆっくりと、しかし確実に芽を出し始めていた。




