第二十四章 揺り籠の中の戦士たち
「ル・ヴァン」は、風の名に恥じぬ速さで、シャムの都アユタヤを後にした。船首は西へ。目指すは、遥かなるヨーロッパ、フランスのマルセイユ港。
船倉には、陶磁器や香木といった莫大な富を生むであろう「表」の積荷が眠っている。だが、エドムンドとフィリップの全神経は、船倉の最も奥、船長室の真下に設けられた特別な一室に注がれていた。
そこには、何十もの巨大な水樽が、船の揺れを最小限に抑えるよう、完璧に固定されていた。樽は、シャムを出る前に、最も清浄な川の水で満たされている。そしてその水の中に、湿らせた綿布に包まれた竹筒が、藁で組まれた仕切りに守られながら、無数に浮かんでいた。竹筒の中には、瑠璃と紅玉の戦士たちが眠っている。
このシステムこそ、エドムンドが考案した輸送方法の真髄だった。
水樽の大量の水は、竹筒を衝撃から守る緩衝材であり、船倉の急激な温度変化を防ぐ断熱材でもあった。そして何よりも、それは竹筒の中の水を定期的に交換するための、巨大なリザーバータンク(貯水槽)の役割を果たしていたのだ。
旅は、速さだけではなかった。それは、忍耐と、細心な管理の連続だった。
三日に一度、エドムンドとフィリップはその部屋に籠り、樽の蓋を一つ開ける。そして、竹筒を一本ずつ、慎重に取り出す。中の汚れた水を捨て、特別な柄杓を使い、樽の中から清浄な水を汲んで、竹筒を満たしていく。
フィリップは、貴族の生まれでありながら、嫌な顔一つせず、甲斐甲斐しくエドムンドを手伝った。
「不思議なものだ」ある日、竹筒の中の美しいベタを眺めながら、フィリップは言った。「これほど激しい魂を持つ生き物が、これほどか弱いとは。まるで、ガラス細工の剣のようだ」
「だからこそ、価値がある」エドムンドは答えた。「手に入れるのが困難なものほど、人の心を強く惹きつける」
この自給自足のシステムのおかげで、「ル・ヴァン」は不要な寄港を繰り返すことなく、驚異的な速さを維持し続けることができた。彼らが港に立ち寄るのは、船全体の食料や飲料水を補給する、必要最低限の時だけだった。
そして、あの海図にない「エスペランサ島」で手に入れた泉の清流は、航海の最終盤に備えて、樽の水を全て入れ替えるための、まさに神からの贈り物となったのだ。
そして、シャムを出航してから数ヶ月後。
ついに、「ル・ヴァン」は大西洋を越え、ジブラルタル海峡を通過した。潮の香りが、懐かしい地中海のそれに変わる。
船長が、エドムンドに報告した。
「旦那様。明日には、マルセイユの港が見えてきましょう」
その夜、エドムンドとフィリップは、最後の検分を行った。
長い旅路と、数々の困難を乗り越え、生き残った数十匹のベタは、シャムにいた時と変わらぬ、燃えるような生命力と美しさを保っていた。特に、最も気性が荒く、最も瑠璃色が深い一匹は、まるで旅の間も力を蓄えていたかのように、凄みを増していた。
「この一匹で、フランスの王さえも買えるかもしれんな」フィリップは、感嘆のため息をついた。
エドムンドは、静かに竹筒を樽に戻した。
「我々が売るのは、魚ではない。夢と、伝説だ」
長い助走は、終わった。
彼らは今、ヨーロッパの心臓部で、まだ誰も見たことのない壮大な賭けを始めるために、そのスタートラインに立っていた。
夜明けと共に、フランスの海岸線が、その姿を現し始めるはずだった。




