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第二十三章 二人の盟友

 シャムでの準備は、すべて整った。

 船倉には、陶磁器や香木といった確実な利益を生む商品が眠り、その奥には、一攫千金の夢を秘めた闘魚ベタたちが静かに出番を待っている。そして何より、エドムンド自身の手には、世界最速のフリゲート船『ル・ヴァン』の舵があった。


 その夜、エドムンドは船長室で、一枚の海図を広げていた。

 アユタヤから西へ。マラッカ海峡を抜け、インド洋を横断し、アフリカの喜望峰を回る。そこまでは、来た道と同じだ。問題は、その先。大西洋に出た後、この「ル・ヴァン」の船首を、どこへ向けるべきか。

 商人として、最も合理的で、最も利益が見込める港は決まっている。

 リスボンか、アムステルダムだ。

 東洋の珍しい産物が集まる、ヨーロッパ最大の市場。そこで闘魚を披露すれば、投機熱に浮かされた商人たちが、法外な値で買い取ってくれるだろう。一夜にして、彼は巨万の富を築き、大商人としての名声を確立できる。それが、最も賢明な道のはずだった。

 だが、エドムンドの心は、なぜか晴れなかった。

 彼は、ロウソクの灯りで、自らの手のひらを見つめた。奴隷の時にできた古傷は、もうほとんど消えている。彼は、ただの金儲けのために、あの地獄を生き延びてきたのだろうか? ナフマンは、彼に自由を与えた。それは、金で測れる自由だったのか?


「しかし……最も賢明な道は、リスボンだろうな」エドムンドは、海図の一点を指さして言った。


 ロウソクの灯りが、彼の傍らに座る男の、思慮深い横顔を照らしている。フランス人貴族、フィリップ・ド・ヴァレリーだ。

 あの喜望峰の嵐の中、ガスパールの難破船から救出した、一人の若い男。彼は、奴隷たちの間に紛れていたが、その立ち居振る舞いは明らかに異なっていた。救出後、彼はエドムンドにだけ、その素性を明かした。

 自分は、フランスから来たプロテスタント(ユグノー)の貴族、フィリップ・ド・ヴァレリーである、と。

 バルバリア海賊に捕らえられ、奴隷としてガスパールに売られたのだ、と。


 彼は、奴隷の時に着ていたボロではなく、エドムンドがアユタヤで仕立てさせた、上質な絹の服を身につけていた。


 フィリップは、静かに首を横に振った。

「エドムンド。君は、一夜の富を求めるだけの男か? 私はそうは思わない」

 彼は、海図の上のフランスを、細く長い指でなぞった。

「君が手に入れたこの魚は、金貨を生む鶏ではない。王城の扉を開ける、魔法の鍵なのだよ」

 フィリップは、真剣な目でエドムンドを見つめた。

「今のフランスは、病んでいる。カトリックとユグノーの対立で、宮廷は疑心暗鬼に満ち、貴族たちは退屈している。彼らは、血と陰謀以外の、新しい刺激に飢えているのだ」

 彼は、エドムンドが買い付けた、瑠璃色の闘魚が泳ぐ水差しに目をやった。

「この世の物とは思えぬほど美しい魚。命を賭して戦う、その姿。これを、フランス宮廷で披露したなら……? 退屈した王侯貴族たちが、どれほど熱狂するか、想像がつくだろう?」

 エドムンドは、フィリップの言葉の真意を悟った。

「君の家、ヴァレリー家への手土産としてか」

「違う」フィリップは、はっきりと否定した。「これは、君自身の未来への投資だ。君は、私を救ってくれた。その恩に、我がヴァレリー家が報いるのは当然のこと。我々が、君をフランス社交界へ導こう。そして、この魚は、君が一夜にして、宮廷で最も注目される存在になるための、最高の切り札となる」

 フィリップは立ち上がり、エドムンドの肩に手を置いた。

「金で得られるのは、富だけだ。だが、信頼できる友と開く扉は、未来そのものに繋がっている」

 エドムンドの心にあった迷いの霧が、完全に晴れた。彼は、フィリップの手を固く握り返した。

「……面白い。君の賭けに乗ろう」

 彼は、甲板に出て、夜空の星を見上げた。

「船長!」

 背後に控えていた船長に、彼は揺るぎない声で告げた。

「進路を、フランスへ。マルセイユの港を目指す!」

 それは、エドムンド一人の決断ではなかった。

 異なる世界に生きてきた二人の男が、互いの才覚と未来を信じ、共に選んだ、野心的な航路だった。


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