第十六章 雷の洗礼
アデンを出港して二週間、アラビア海は穏やかだった。
「希望号」は、もはや以前のそれとは全く違う船だった。船倉の闇と捕虜たちの重荷は消え、甲板には、未来への希望に満ちた人々の姿があった。救出されたセファルディムの民は、船員たちと共に船の仕事を手伝い、子供たちの笑い声が、貿易風に乗って響き渡った。エドムンドは、この束の間の平和が、人々の傷を少しずつ癒やしていくのを、静かに見守っていた。
だが、自然は気まぐれな顔を見せる。
その日の午後、風は凪いでいるにもかかわらず、空だけが急速に暗くなっていった。熱帯特有の、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、船員たちの間を不安な沈黙が支配し始めた。
「妙な天気だ……」
船長が、空を見上げながら呟いた。波はなく、風もない。ただ、空だけが不気味なほどの暗雲に覆われ、時折、雲の奥で青白い光が瞬くだけだった。まるで、巨大な獣が静かに息を潜めているかのようだった。
その時だった。前触れもなく、天を切り裂く轟音と共に、船のすぐそばの海面に、光の柱が突き刺さった。一瞬遅れて、腹の底を揺さぶるような衝撃が船を襲う。
「雷だ!」
これを皮切りに、悪夢が始まった。風も雨も、まだそれほどではない。だが、頭上の暗雲が、狂ったように雷を放ち始めたのだ。四方八方で、海面が白く沸騰し、耳をつんざく破壊音が鳴り響く。船は、神の怒りが作り出した光の檻の中に閉じ込められてしまったかのようだった。
「甲板に伏せろ! マストから離れろ!」
船長の絶叫が響く。だが、その声は、次の瞬間、さらに巨大な轟音によってかき消された。
バリバリッという、船全体を砕くかのような衝撃。エドムンドは、メインマストの先端に、巨大な光の槍が突き刺さるのを、スローモーションのように見ていた。凄まじい音と共に、マストが裂け、火花を散らしながら燃え上がる。木造船での火災。それは、沈没よりも恐ろしい、絶対的な死を意味する。
「うろたえるな!」
エドムンドの声が、雷鳴の合間に響き渡った。彼は、いち早く我に返ると、呆然と立ち尽くす乗組員たちを叱咤した。
「火を消すんだ! 今すぐ!」
その声に、人々は魔法から覚めたように動き出した。乗組員たちは、いつまた落雷があるやもしれぬ恐怖と戦いながら、決死の覚悟でバケツに海水を汲み、燃えるマストへと駆け寄った。救出された同胞の中の船大工たちも、恐怖を押し殺し、マストの亀裂が広がらないよう、ロープで応急処置を施し始めた。
どれほどの時間が経ったのか。気がつけば、あれほど狂っていた雷雲は遠ざかり、空には再び太陽が顔を出していた。
「希望号」は、満身創痍ながらも、海に浮かんでいた。マストの火は消し止められたが、その先端は黒く焼け焦げ、巨大な亀裂が痛々しく走っている。
船長が、びしょ濡れのままエドムンドの元へ歩み寄ってきた。その顔には安堵と、それ以上に深刻な憂いが浮かんでいた。
「旦那様……。生き延びました。ですが……」
彼は、焼け焦げたメインマストを見上げた。
「マストが、もう持ちこたえられません。次の時化が来れば、間違いなく折れるでしょう。このままでは、インドには到底たどり着けません」
船長の言葉に、甲板に広がっていた安堵の空気は、再び静かな絶望へと変わっていった。彼らは、広大な海の真ん中で、頼るべき推進力の大半を失ってしまったのだ。
「陸を探すんだ」エドムンドは、静かに、しかし力強く言った。「どこでもいい。船を修理し、体勢を立て直せる場所を。すぐにだ」




