第十五章 アデンの楔
喜望峰の悪夢を乗り越え、船がアフリカ東岸を北上するにつれて、潮風は乾いた砂の香りを運び始めた。
彼は、ナフマンから渡されていた秘密の海図を広げた。そこには、通常の交易港に混じって、ナフマンの「蜘蛛の巣」の結節点となる、いくつかの特別な港が記されていた。その中で、紅海の入り口に位置する港町、アデンに、彼は太い指を置いた。
アデン。古代から続く交易の要衝であり、大きなユダヤ人コミュニティが根付く、砂漠のオアシス。ここならば、捕虜の身柄を安全に引き渡し、船を修理し、そして何より、故郷への最後の旅路を前に、同胞たちにしばしの休息を与えることができるはずだった。
数週間後、「希望号」がアデンの港にそのずんぐりとした姿を現すと、すぐに一艘の小舟が近づいてきた。小舟に乗っていたのは、ナフマンの代理人である、日に焼けた壮年のユダヤ商人だった。彼は、サロニカから送られた伝書鳩の知らせを受け、全てを準備して待っていたのだ。
代理人の手引きで、「希望号」は港の奥、町の喧騒から離れた場所へと係留された。
まず船から降ろされたのは、鎖に繋がれたガスパールとその船員たちだった。衰弱してはいるが、その目にはまだ反抗的な光が宿っていた。彼らは、代理人が手配した現地の兵士たちによって、厳重な警備の下、陸路でサロニカへと送られる隊商の「荷物」に加えられた。二度と、彼らが海の自由を味わうことはないだろう。
引き渡される直前、意識を取り戻していたガスパールが、エドムンドを睨みつけた。
「……貴様、一体何者だ……」
「ただの商人ですよ」エドムンドは静かに答えた。「あなたとは少しだけ、やり方の違うね」
それが、二人の最後の対面となった。
全ての捕虜が引き渡され、船に巣食っていた重苦しい空気が消え去ると、エドムンドは甲板にセファルディムの同胞たちを集めた。
「ここはアデン。我らの同胞が暮らす、安息の地だ。インドへの最後の航海を前に、ここでしばし羽を休めよう。傷を癒し、力を蓄えるのだ」
アデンのユダヤ人コミュニティは、彼らを温かく迎え入れた。シナゴーグ(教会)が寝床として提供され、栄養のある食事が用意され、医者が彼らの傷と病を癒した。彼らは何ヶ月ぶりかに、恐怖も看守もいない場所で、大地の安らぎを感じながら眠りについた。
数日後、出航の準備が整った。
船倉には、アデンの同胞たちが用意してくれた、新鮮な果物や野菜、真水が満載された。「希望号」の小さな損傷も、腕利きの船大工によって完全に修復された。
再び船に乗るセファルディムの民の表情には、もはや奴隷の陰はなかった。彼らの目には、アデンの同胞たちとの交流によって取り戻した、民族の誇りと、故郷インドへの確かな希望が輝いていた。
アデンの港を出て、広大なインド洋へと船首を向けた時、船長がエドムンドの隣に立った。
「旦那様。ようやく、本当の旅が始まりますな」
エドムンドは、水平線の彼方を見つめながら、静かに頷いた。
「ああ。ここから先は、誰に追われることもない。我々は、未来へ向かって進むだけだ」
船は、もはや監獄船でもなければ、難民船でもない。
約束の地インドを目指す、正真正銘の「希望号」として、アラビア海の穏やかな風を受け、力強く進み始めた。




