第十三章 嵐の岬
喜望峰が、黒い牙のように水平線の向こうに姿を現した時、空は不吉な紫色に染まっていた。ベテランの船乗りたちが「悪魔の吐息」と呼ぶ、湿った生暖かい風が吹き始め、海は不気味なほど静まり返っていた。
「奈落号」の甲板では、ガスパールが後方に現れた「希望号」の船影を忌々しげに睨みつけていた。二週間の差は、今や数リーグ(およそ10数キロ)にまで縮まっていた。
「嵐が来るぞ! 急いで岬を回り込め!」
経験豊富な航海士が、嵐を避けて湾へ退避することを進言したが、ガスパールはそれを一蹴した。
「臆病者め! あの亀に追い抜かれる屈辱を味わうくらいなら、地獄の釜でも突っ切ってやるわ! 帆を張れ! 全速で嵐を突き抜けろ!」
だが、彼の命令に、船員たちの動きは鈍かった。壊血病はすでに甲板の者たちにも蔓延し、高熱と関節の痛みで、立っていることさえやっとの者が大半だった。風が唸りを上げ、巨大な横波がガレオン船を打ち据える。
「帆をたため! 急げ!」
ガスパールの怒声が響くが、弱り切った船員たちは濡れて重くなったロープを引くこともできず、マストにしがみつくのが精一杯だった。巨大な帆は風を孕んだまま裂け、暴れ馬のようにマストを揺さぶる。高波に煽られた舵は効かず、船は木の葉のように回転し始めた。快速を誇った猟犬は、牙を抜かれ、ただ嵐に翻弄されるだけの獣と成り果てていた。
同じ頃、「希望号」の甲板では、全く違う光景が広がっていた。
「嵐が来るぞ! 総員、配置につけ!」
エドムンドと船長の下知に、奴隷のふりをしていた乗組員たちが、精鋭の顔つきで一斉に動き出す。彼らの動きに、一切の無駄はなかった。嵐が本格化する前に、不要な帆は畳まれ、積荷は固く固定される。
「希望号」のずんぐりとした船体は、嵐の中で不格好だが力強く波を受け止め、乗り越えていく。エドムンドは、マストに体を縛り付け、叩きつける雨と波に耐えながら、乗組員たちを鼓舞し続けた。誰もがずぶ濡れで、極度の緊張の中にいたが、誰一人として恐怖に我を忘れる者はいなかった。彼らは、この嵐を乗り切れば勝利が待っていることを知っていた。
夜が明け、嵐が嘘のように過ぎ去った後、海はまだ灰色に濁っていた。
「希望号」は、マストの一部を損傷したものの、奇跡的に嵐を乗り越えた。乗組員たちは、疲労困憊ながらも安堵の息をついた。
その時、見張り台から声が響いた。
「前方に……陸地! そして……難破船だ!」
エドムンドが望遠鏡を向けると、岩だらけの海岸線に、見るも無惨に真っ二つになった船体が横たわっていた。黒い船体、巨大なマストの残骸……間違いなく、ガスパールの「奈落号」だった。
賭けは、終わった。
インドを目指すレースは、ここで終わりを告げたのだ。
船員たちが、静かな歓声を上げる。だが、エドムンドの表情は厳しかった。彼は、望遠鏡で海岸を食い入るように見つめている。岩陰で、かろうじて動いている人影が見えた。
彼は、静かに、しかし船の隅々にまで響き渡る声で命じた。
「総員、戦闘配置を解け。これより、救助活動を開始する」
船長が「しかし旦那様、奴らは……」と言いかけたのを、彼は手で制した。
「我々は勝った。だからこそ、救うのだ」
エドムンドは、囚われていた同胞たちと、そして自分自身の過去に語りかけるように言った。
「小舟を下ろせ。医者と、薬と、真水を。そして、毛布をありったけ。生存者を探すぞ。一人でも多く、だ」




