第十二章 亀と猟犬
夜明け。コンスタンティノープルの空が、鉛色から燃えるような緋色へと変わる頃、港の入り口には二隻の船が並んでいた。岸辺には、この奇妙な世紀の賭けを一目見ようと、多くの野次馬が集まっていた。
港長官の塔から、号砲として一発の空砲が放たれた。その音を合図に、二隻の船は同時に錨を上げる。
先に動いたのは、ガスパールの「奈落号」だった。熟練の船員たちが、怒声にせかされて巨大な帆を次々と広げていく。風を捉えたガレオン船は、まるで黒豹が獲物に飛びかかるように、滑らかに、そして圧倒的な速さで水面を切り裂き始めた。甲板に立つガスパールが、遥か後方に取り残されていく「希望号」を指さし、高らかに嘲笑うのが岸辺からでも見えた。野次馬たちは、やはり勝負は決まったとばかりに、ガスパールに声援を送った。
一方、エドムンドの「希望号」の動きは、対照的にどこまでも緩慢だった。ナフマンの部下たちは、わざと不慣れなふりをしながら、ゆっくりと帆を上げていく。ずんぐりとしたキャラック船は、まるで眠りから覚めたばかりの老人のように、のっそりと動き出した。エドムンドは船尾に立ち、あっという間に小さくなっていく「奈落号」を、表情一つ変えずに見つめていた。
出港から数日が過ぎ、二隻の船の差は絶望的と思えるほどに開いていた。地中海に出る頃には、「奈落号」は水平線の彼方へと完全に姿を消していた。
「希望号」の船上では、奇妙な日常が繰り返されていた。昼間、他の船とすれ違う可能性がある時間帯は、乗組員たちは完璧な「奴隷」を演じた。数人の見張り役が鞭を手に甲板をうろつき、他の者たちは虚ろな目で甲板を磨いたり、ロープを繕ったりする。
だが、夜になり、自分たち以外に誰もいないことが確認されると、船の空気は一変した。
奴隷の演技は解かれ、彼らは百戦錬磨の船乗りの顔に戻る。船倉から運び出されるのは、良質な小麦で作った焼きたてのパンと、栄養豊富な豆のスープ。そして、エドムンドが用意させた「希望の飲み物」――ローズヒップと蜂蜜の温かいお茶が、全員に配給された。
エドムンドと船長は、毎晩のように海図を広げ、風と海流を読み、最短ではなく「最も消耗しない」航路を選び続けた。船は清潔に保たれ、乗組員たちの士気は高かった。
その頃、遥か先を疾走する「奈落号」の船上は、勝利の祝宴さながらだった。ガスパールは上等なワインを開け、幹部たちと連日酒盛りをしていた。「もはや勝負は決まった。あのノロマな亀がインドに着く頃には、俺たちは金貨の山を数え終わっているだろう」と。
彼は速力のみを追求し、船員たちに十分な休息を与えず、船を酷使した。
その祝宴の真下、光の届かない船倉では、地獄が生まれつつあった。
詰め込まれたセファルディムの民は、腐りかけの水と、僅かな堅パンだけで命をつないでいた。不衛生な環境の中、体力の弱い者から次々と倒れ始めた。咳の音が、闇の中に響き渡る。だが、ガスパールにとって彼らは、インドに着くまで呼吸をしていればいいだけの「積荷」だった。彼は、船倉で起きている異変の報告を受けても、眉一つ動かさなかった。
出港から二週間が経過した。
エドムンドの「希望号」は、変わらぬペースで、黙々とインド洋を目指していた。水平線の先には、まだ敵船の姿は見えない。
船長が、少し不安げにエドムンドに尋ねた。
「旦那様。本当に、これで追いつけるのでしょうか?」
エドムンドは、星々が輝く夜空を見上げ、静かに答えた。
「彼は風と競争している。我々は、海と旅をしているのだ。海は、急ぐ者を試す。焦る者を篩にかける。見ていろ、船長。もうすぐだ。海が、我々に味方し始める」
彼の言葉通り、地中海を抜けてアフリカ沿岸に近づくにつれ、空の色と風の匂いが、少しずつ変わり始めていた。




