第四章:新しい船出
レオの死は、エドマンドの心に残っていた最後の希望さえも灰に変えた。もはや彼の心は、怒りも悲しみも感じない、冷え切った石のようになっていた。ただ、看守の怒声に身体を動かし、割り当てられた黒パンを喉に押し込み、明日も同じ一日が来ることを呪うだけの、生ける屍だった。
彼の脳裏にかすかに残っているのは、レオの青白い顔と、対照的だったガスパールの姿。そして、あの男が密かに口にしていた「赤い果実」の記憶だけだった。それは意味をなさない謎の光景として、ただ彼の意識の片隅にこびりついていた。
その日、すべては唐突に終わりを告げた。
岩を砕く作業の最中、一人の看守が彼の名を呼んだのだ。
「イングランド人のヘイル! 来い!」
エドマンドはつるはしを置いた。周囲の囚人たちが、憐れみと好奇の入り混じった目で彼を見る。こういう時の呼び出しは、ろくなことではない。処刑か、あるいは見せしめのための拷問か。もはやどうでもいいとさえ思った。彼はただ黙って看守に従った。
だが、連れていかれた先は拷問部屋ではなかった。キャンプの隅にある、小さな管理事務所だった。そこで彼は、身なりの良い、商人風の男に引き渡された。男は言葉少なにエドマンドを馬車に乗せると、キャンプを後にした。揺れる馬車の中で、エドマンドは初めて己の身体から放たれる、汗と泥の酸っぱい匂いに気づいた。
馬車が着いたのは、コンスタンティノープルの旧市街にある、壮麗な屋敷だった。彼は召使いたちによって、まるで汚物でも扱うかのように風呂場へと連れていかれ、容赦なく身体を洗われた。垢と泥と共に、数ヶ月分の記憶が流れ落ちていくようだった。新しい、清潔な衣服を与えられ、鏡の前に立たされた時、エドマンドはそこに映る、頬のこけた見知らぬ男の姿に絶句した。
やがて彼は、香辛料と古い紙の匂いがする書斎へと通された。部屋の主と思われる初老の男が、静かな目で彼を見つめていた。男は自分をエズラと名乗った。
「お前が、エドマンド・ヘイルか」
エズラは、ほとんど訛りのない英語で尋ねた。その声には、権威と、相手を値踏みするような響きがあった。
「……そうだ。あんたは誰だ。何の目的だ」
エドマンドは、警戒心を解かずに答えた。
「私の名に意味はない。重要なのは、我々を遣わした方の名だ」
エズラは机の上の書類に目を落とした。
「ロンドンの、トマス・フィンチという男を知っているな?」
その名を聞いた瞬間、エドマンドの心臓を、見えない槌が打ち抜いた。
トマス。友の名。この世界の果てのような場所で、聞くはずのない名前だった。灰と化したはずの心に、熱いものがこみ上げてくるのを、彼は必死でこらえた。
「……なぜ、その名を」
「我らが主、サロニカのダヴィデ・ベン・ナフマン様が、彼から一通の手紙を受け取られた。いわば、信用状だ。フィンチ氏は、君という男を保証した。そして、彼の信用は、我々の世界では金よりも重い」
エズラは淡々と続けた。「我らはフィンチ氏の依頼に応え、君を『買い取った』。君を労働キャンプに送った役人たちは、我らの差し出した金貨に満足して、君の存在を記録から消しただろう。今や君は、オスマン帝国の囚人ではない。自由の身だ」
自由。その言葉が、エドマンドにはひどく空虚に響いた。故郷には戻れず、一文無しの逃亡者。そのどこに自由があるというのか。
エズラの目は、そんな彼の心を見透かしているようだった。
「だが、君には帰る場所も、生きる術もない。そこで、我が主ナフマン様から、君に一つの提案がある」
彼は、窓の外に広がる港を指し示した。様々な国の旗を掲げた船が、活発に行き交っている。
「ナフマン様は、君のような男に『投資』する価値があるとお考えだ。君がロンドンで培った商いの知識、そして何より、トマス・フィンチという男が保証した君の信用。それを、我々のために使ってみる気はないか。君を救い出すために我らが払った金を、君自身の才覚で返済してみせろ、と」
それは、命令ではなかった。だが、拒むことのできない提案だった。彼は囚人ではなくなった。だが今、恩義と負債という、目には見えない新しい鎖に繋がれたのだ。
エドマンドは、窓の外を眺めた。青いボスポラス海峡を、ヨーロッパとアジアを行き交う無数の船々。かつてトマスが語った、信用だけが支配する自由な海の世界。
「……わかった」
彼は、かすれた声で答えた。「その提案、受けよう」
エズラは満足げに頷いた。
エドマンドは、灰と鎖の中から解放された。そして今、巨大な帝国の心臓部で、彼の全く新しい船出が始まろうとしていた。




