表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/100

第三章:サロニカの蜘蛛の糸

 エドマンドがコンスタンティノープルの泥の中で人間性を剥奪されていた頃、遠く離れたロンドンでは、一人の男が諦めずに彼の行方を追い続けていた。


 トマス・フィンチは、ロイドのコーヒーハウスの喧騒から距離を置き、今ではテムズ川沿いの目立たないアパートの一室を仕事場としていた。壁には、彼が独自に集めた地中海の海図と、各国の船の入港情報がびっしりと貼られている。部屋には、古い羊皮紙の匂いと、乾きかけたインクの匂いが満ちていた。


 彼の机の上には、シティの掲示板から剥がしてきた一枚の指名手配書が、文鎮の下に広げられていた。エドマンド・ヘイルの、無骨な木版画で描かれた似顔絵。その下には「放火犯」という、血も涙もない烙印が押されている。


「放火犯、か……」トマスは呟いた。「君は、ただ真実を追い求めただけだというのにな」


 友人への罪悪感と、彼を追い詰めたこの街の権力構造への静かな怒りが、トマスを突き動かしていた。エドマンドがオスマンの軍船に連れ去られたという噂を掴んで以来、彼は手を尽くしてその行方を捜していた。だが、オスマン帝国という巨大な迷宮の中で、一人のイングランド人を見つけ出すのは不可能に近かった。


 公式な外交ルートは使えない。使えば、エドマンドの立場がより危険になるだけだ。残された道は一つ。国家や王の権力が及ばない、もう一つのネットワークに頼ることだった。


 トマスは新しい羊皮紙に向かい、ペンを走らせた。それは、彼の祖先が何百年もの間、信頼を紡ぎ、築き上げてきた蜘蛛の糸をたどる手紙だった。


『親愛なるダヴィデ・ベン・ナフマン様


 ロンドンのトマス・フィンチより、ご挨拶申し上げます。我らが祖先がセファラド(スペイン)の地を追われてより幾星霜、貴家がサロニカの地で築かれたご名声は、遠くこの霧の都にまで届いております。その血と記憶の繋がりを頼りに、ペンを執るご無礼をお許しください……』


 宛先のダヴィデ・ベン・ナフマンは、オスマン帝国第二の都市サロニカを拠点とする、セファルディム(スペイン系ユダヤ人)の長老であり、地中海に広大な交易網を持つ大商人だった。トマスの家系もまた、その昔スペインからイングランドへ逃れたコンベルソの末裔。彼らの間には、目には見えないが、決して切れることのない同胞の絆が存在した。


『……つきましては、貴殿のお力をお借りし、探していただきたい人物がおります。名は、エドマンド・ヘイル。イングランド人であり、私の唯一無二の友人です。彼はキリスト教徒ではありますが、身分や信仰で人を分け隔てぬ、真の信用を知る男。彼は今、オスマンの地で囚われの身となっているはずです。どうか、この蜘蛛の糸の先にいる彼を見つけ出し、救いの手を差し伸べてはいただけないでしょうか……』


 その手紙は、イングランドの公式な郵便船では運ばれない。オランダ商船の船長に託され、アムステルダムへ。そこからヴェネツィアの商人の手を経て、アドリア海を渡り、サロニカの港へと届けられた。それは、国家間の戦争さえも乗り越える、商人たちの信用のリレーだった。


 数週間後、エーゲ海に面したサロニカの港。


 白亜の家々が立ち並ぶ活気ある街で、ダヴィデ・ベン・ナフマンはロンドンからの手紙を読んでいた。彼は七十歳を超えていたが、その瞳は鷲のように鋭く、地中海の隅々までを見通しているかのようだった。


「ロンドンのフィンチ家から? 珍しいな」


 そばに控えていた息子が、訝しげに言った。


「父上、イングランド人のために、我々が危険を冒す必要が? しかも、帝都コンスタンティノープルで囚われているとなれば、下手に動けば我らにも災いが及びます」


 ナフマンは、窓の外に広がる紺碧の海を見つめながら、静かに答えた。


「アロンよ。我らが祖先は、異教徒であるというだけで、全てを奪われ、追放された。我らを救ってくれたのは、キリスト教徒の王ではなく、オスマンのスルタンだったことを忘れるな。そして、フィンチの者たちは、信仰を隠してまで生き延びてきた我らの同胞だ。その同胞が『信用できる男だ』と認めた異教徒だ。ならば、手を差し伸べる価値はある」


 彼は息子の目を見て、続けた。


「それに、だ。帝都の強制労働キャンプに、若く、強く、そしておそらくは教養もあるイングランド人が転がっているというのは、興味深いではないか。そういう人間は、時に金や銀よりも価値のある宝となる。信用は、常に利益を生むのだよ」


 ナフマンは、手にしたベルを鳴らした。


「イスタンブール(コンスタンティノープル)の代理人に伝えよ。港湾工事の労働キャンプを探れ、と。身元不明のイングランド人がいるはずだ。名は、エドマンド・ヘイル。見つけ次第、どんな手を使ってもいい、必ず救い出せ」


 その一声で、巨大な蜘蛛の巣が動き出した。サロニカから帝都へ、蜘蛛の糸が静かに、しかし確実に、絶望の淵にいる一人の男へと伸びていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ