第10章:異国の港
夜の闇が最も深くなる頃、エドマンドは動いた。酒場の喧騒を背に、猫のように身をかがめて波止場を進む。潮の香りと、腐った魚の匂いが鼻をついた。
目的の「セラフィン号」では、見張りの船員が一人、船首でうたた寝をしているだけだった。エドマンドは船体に巡らされた太いもやい綱を伝い、音を立てずに甲板へとよじ登る。出航前の雑然とした甲板には、帆布がかけられた木箱や樽が無造作に置かれていた。彼はその一番大きな影、積み荷の隙間に身を滑り込ませた。
夜明け前、酔って陽気な船員たちが戻り、船は活気づいた。エドマンドは息を殺し、木箱の隙間から彼らの荒々しい会話を聞いていた。やがて、もやい綱が解かれ、船が岸壁を離れる微かな振動が伝わってきた。船は夜霧に煙るテムズ川を静かに下っていく。
これで自由になれる。安堵が胸に広がった、その時だった。
川の行く手を、イングランド当局の船が塞いだ。何者かが、不審な影が船に乗り込むのを見ていたのかもしれない。
「停船せよ! 臨検を行う!」
役人の鋭い声が響き、セラフィン号はあっけなく拿捕された。甲板に乗り込んできた役人たちは、積荷を改め始める。エドマンドが隠れていた場所は、すぐに見破られた。
「こいつだ! 放火犯エドマンド・ヘイルだ!」
エドマンドは鎖でマストに繋がれた。絶望が彼を打ちのめした。陸からも海からも見放され、ここで全てが終わるのか。
だが、その瞬間、運命は誰も予期せぬ方向に舵を切った。
夜の霧の向こうから、三日月と星を掲げた、異形の船団が姿を現したのだ。オスマン帝国の艦隊だった。彼らはイングランドの船を見つけるや、警告もなく砲撃を開始した。
乱戦の中、一人の屈強な兵士が、鎖に繋がれたエドマンドに気づいた。彼は敵の囚人であるエドマンドを、何か勘違いしたのか、あるいはただの気まぐれか、その太刀で一閃し、鎖を断ち切った。そして、エドマンドの腕を掴むと、荒々しく自らの船へと引き上げた。
それから、どれほどの月日が流れただろうか。
エドマンドはオスマン帝国のガレー船の船倉で、揺られるままに時を過ごした。言葉は通じず、彼が何者なのかを尋ねる者もいなかった。「イングランドの囚人」という事実が、彼に最低限の食料と安全を保証しているようだった。日に数度、甲板に出ることを許された。そこは、彼の知る世界とは全く異なっていた。
船はジブラルタル海峡を抜け、広大な地中海を東へと進んだ。空の色は日に日に深く、青くなっていった。
そしてある朝、船乗りたちの間に歓声が上がった。
甲板に連れ出されたエドマンドが見たのは、信じがたい光景だった。
朝靄の向こうに、巨大な都市が横たわっていた。緩やかな丘の上には、巨大なドームを持つ壮麗な建物がいくつもそびえ立ち、鉛筆のように鋭く尖った無数の塔が天を突いている。湾には、彼の生涯で見たこともない数の船がひしめき合い、活気に満ちていた。やがて、街のあちこちから、朗々とした男の声が響き渡ってきた。それは歌のようでもあり、祈りのようでもあった。
ロンドンの煤けた空と、石と煉瓦の重苦しい街並みしか知らなかったエドマンドは、その色彩と喧騒と壮大さに、ただ圧倒された。船が港に着き、跳ね橋が降ろされる。
「降りろ」
背中を無骨な手に押され、エドマンドは一歩を踏み出した。
香辛料と、花の香りと、人々の汗の匂いが混じり合った熱い空気が、彼の肺を満たす。
灰の街を追われた放火犯、エドマンド・ヘイルは、コンスタンティノープルの硬く、乾いた土を、確かに踏みしめた。彼の瞳には、絶望でも希望でもない、ただ目の前に広がる未知なる世界の光だけが映っていた。
(続く)




