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「ちぃ、くん?」
その呼び方で俺を呼ぶのは、世界中でただ一人。
俯く視界に飛び込んできた、去年見たのと同じ草履に心を躍らせながら、寸前までのモヤモヤを一瞬で吹き飛ばして俺は勢いよく顔を上げた。
「ちょっと、早く来ちゃったと思ったんだけど。へへへ」
困ったような、何かを誤魔化すようなはにかんだ表情でことちゃんがうっすら微笑んでいる。それを見た瞬間、堪らなくなって立ち上がり、抱きしめかけた。けれど、ココは公衆の面前だからという抑制が働いて、伸ばしかけた手をギュッと握りしめる。
「久しぶり。急に呼び出して、大丈夫だった?」
喉がカラカラに乾いて、こんな言葉を真っ先に言うつもりじゃなかったのに、なんともつまらない質問をした。
「……うん。だって、花火行くなら。ちぃくんと、行きたかったから」
耳まで赤くして、ちょっと俯きながらことちゃんがそう言う。その姿にまたどうしようもない衝動が起こって、必死で抑制しようと理性を総動員して駅の天井を見上げた。
――落ち着け、落ち着け俺。
呪文のように何度も唱えてゆっくりと見下ろすと、ちょっぴり涙目のことちゃんが俺を見上げていた。駄目だ、目の毒だ。このまま家に連れて帰りたい。
ひたすら煩悩と葛藤すること何秒か。この時点で、もうとっくに大嫌いと言われた言葉なんて俺の中では吹き飛んでいた。
そんな葛藤を一人しているうちに、神妙な表情へと移り変わっていたことちゃんに気が付いて、俺は誤魔化すように前髪をぐしゃりと潰す。
「行こうか」
ことちゃんが嬉しいことを言ってくれたのに、それに返事をしていないことに気づく余裕もなく俺がそう切り出すと、ことちゃんが少しだけさびしそうな顔をした。
――もしかして、やっぱり会いたくなかった?
さっきの言葉を聞いていたのかと思うほど俺は駄目になっていて、ことちゃんをちゃんと見ることが出来ていなかったと気づかされるのは、まだ先のことになる。
「手、出して」
繋いでいい? なんて尋ねるのが怖くて、強引な口調が口をついて出る。自分でお前何様だよとツッコみたくなるほどの言い草に呆れながら、おずおずと出された左手を速攻で絡め取った。
繋いだ小さな手に落ち着きを感じる。すっぽりと収まるその感じが、自分の手中に入った感を出していて、ようやくことちゃんに会えた心地がした。けれど、見下ろすとやはり俯きがちなことちゃんに、胸が詰まる。もっと顔が見たいのに、声が聞きたいのにと思うのにどれも口にはできない。電車に乗り込んで黙ったまま窓の外を見ていると、繋いだ手が緩んだ気がして力強く握りしめ直した。
ガタン
電車が揺れたのにあわせてことちゃんの体が傾ぐ。咄嗟に引き寄せて左手を帯びの後ろに回した。
「大丈夫?」
尋ねるとコクリと小さく頷くのがわかって、さらにギュッと抱き寄せる。ことちゃんのおでこが胸元に当たって、アップにされたお団子が見えた。その先に白く映るのは、項……
――マズイ、見るな俺。
その首筋にキスをしたい、なんて思っているとことちゃんが知ったらきっと卒倒するに違いない。
目の前の吊り革に視線を移して、煩悩消え去れと3度唱える。それで少し気分の落ち着いた俺は、いつの間にか繋ぐ手が緩んでいる気がして、また力を込めた。
目的地について、去年同様に屋台でアレコレ買い求めた。でも今日は手を繋いだままことちゃんを離さない。まだ二人の間はぎこちなくて、一瞬でも手放したら遠くに行ってしまいそうで不安だった。
「みかん飴、あって良かった」
去年好きだと聞いたそれを買って渡すと、ふんわりと笑みを浮かべてくれた。少しだけ、いつものことちゃんらしい顔が見られて安堵する。しかし、りんごよりみかん派だなんて……今さらながらに、リンゴジュースを何度もあげた過去の自分を恥じた。
「ここも空いてたな」
大丈夫だろうとは踏んでいたけれど、人が居たらどうしようかと不安だった。空いていたことに安堵しつつ、去年と同じように向かい合って座る。
「……あの、」
向かいあって出来た距離に寂しさを感じていると、俯いたことちゃんが何かを言いたそうに口を開いた。何も言わないままここまで来たから、喧嘩なんて無かったかのようだったけれど、ウヤムヤにしてはいけない。姿勢を正して正面のことちゃんを見ると、いつもより縮こまって見える。それが自分のせいだと気づけば、胸がズキリと痛んだ。
「謝り、たいの。こないだ言ったこと」
意を決したようにそう切り出したことちゃんに、俺は焦りを感じた。違うんだ、悪いのは俺だからって。
「待って、謝らないで」
「……」
「違うんだ、その。俺が悪いから。全部俺が悪かったから。だから謝らないで欲しい。ゴメン、ほんとにごめん」
両手を机について、額が擦れるくらい頭を下げた。自分のせいでことちゃんを傷つけたから、謝らせたくなかった。何度もゴメンって言って、それでも治まらない俺にことちゃんが困ったように言う。
「あのね、私も悪かったの。真理亜にも、プール行くってくらいは言っておかなきゃダメって怒られた」
「それは」
「アンタも反対のことされたら嫌でしょって真理亜に言われて。ちぃくんに言われた時は気が動転しててよく分かってなかったけど、冷静に考えたらそうかもしれないって気が付いて」
そう言いながら、前髪を右手で梳きながらことちゃんは俯いた。えと、えと……と言いながら何か言葉を探してる感じがして、俺は邪魔をせずにただ見守りながら次の言葉を待つ。
「だから、気を付けるから……嫌いにならないで、欲しい……の」
ぎゅうっと固く目を閉じてさらに俯くことちゃんを見ながら、俺は衝撃を受けていた。何がどうなったらそんな解釈になるのかさっぱりわからない。
――俺、頭の中ことちゃんでいっぱいなんだけど?
居ても経ってもいられなくて、立ち上がるとことちゃんの傍に駆け寄る。ことちゃん、と呼びかけたら、涙目の彼女が顔を上げて俺を見る。その顔、だから駄目だってば、と思いながら見ないようにギュッと抱き寄せた。
「それ、絶対にありえないから」
「え……?」
「嫌われる心配するのは、俺の方でしょ」
言いながら苦笑する。ほんとにどうして、ことちゃんってこうなんだろう。沸々と沸き起こる愛しさにぎゅーっと力を込めて抱きしめる。
「そんなっ。ちぃくん、嫌いになんかなれないよ」
「そっか。じゃあ、良かった」
「うん……」
何が良くて、何がうん、なのか分からないけれど、少しだけわだかまりが解けた気がする。しばらくして俺との間に隙間を作ると、ことちゃんは目じりを拭って、またへへへと笑っていた。また愛しさが募って、前髪を払う。現れた額を二度親指で擦ると、少しだけそこに唇を触れさせた。
ぴくりと反応することちゃんが可愛くて、ぎゅーっと抱きしめてからさっと離す。
――あまり傍にいるとまずいな。
平静を装って、にこりと笑ってから元の位置に戻る。それから何事もなかったかのように、買って来たものを広げた。
「やっぱりちぃくん、粉もの好きでしょ?」
「そうかな?」
顔を見合わせて笑って、久しぶりに二人で一緒にご飯を食べた。やっぱり誰かと一緒に食べるのは楽しい。その相手がことちゃんならなおさらだって思う。




