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第21話「特別なハチミツ」


 リュネルトの街に夕暮れが近づく頃、冒険者宿屋の食堂には、夕食の仕込みに追われる人々の声が響いていた。

「お父さん、そこのボウル取って!」

「自分で取れるだろう、それくらい」

「今、手が離せないの!」

「だったら、菓子なんか作ってないで料理を――」

「はいはい、分かってます!」

 厨房から飛んでくる父親の小言を聞き流しながら、アリサは生地を混ぜていた。

 今日のお菓子は、蜂蜜を使った焼き菓子。とはいえ、特別な材料を使っているわけではない。いつもの蜂蜜に、少しばかり工夫を加えたものだ。

 試作品を一つ焼き上げたところで、アリサは小さく息をついた。

「うーん……。悪くはないんだけどなあ」

 味見をしてみる。

 甘さは十分。焼き加減も悪くない。

 けれど、何かが足りない気がした。

 そんなときだった。

「アリサ!」

 食堂の入口から、聞き慣れた声がした。

「あ、ユノ! おかえり!」

 振り返ったアリサの顔がぱっと明るくなる。

 革の冒険者装備を身につけたユノが、笑顔でこちらへ歩いてきた。肩にはいつもの荷物。その手には、小さな布袋が一つ握られている。

「依頼、終わったの?」

「うん! 予定どおりに終わったよ!」

「よかった。怪我はない?」

「ないない。みんな元気だよ」

「そっか。ならよかった!」

 アリサはほっとしたように笑った。

 ユノは、そんなアリサの顔を見てから、手に持っていた布袋を差し出した。

「それでね、今日はアリサにお土産があるの」

「お土産?」

「うん。これ、中を見てみて!」

 布袋から取り出されたのは、小ぶりのガラス瓶だった。

 中には、透き通った黄金色の液体が入っている。夕方の光を受けて、瓶の中でとろりと輝いていた。

「……え?」

 アリサは瓶を受け取ると、光にかざした。

「これって、ハチミツ?」

「そうだよ!」

「ハチミツって……。ユノ、これ、どこで手に入れたの?」

「今回の冒険先だよ。森の村の報酬でもらったの」

 アリサは瓶を傾け、ゆっくりと中身を眺めた。

 色が濃い。けれど、暗い色ではない。花の香りを思わせるような、豊かな黄金色だった。

 そして、蓋の隙間から漂う香りに、アリサの表情が変わった。

「……まさか」

「アリサ?」

「これ、フォレストキラービーのハチミツじゃない?」

「そう! よく分かったね」

「分かるわよ!」

 思わず声が大きくなった。

 アリサは慌てて口元を押さえ、厨房のほうを振り返る。

 父親は夕食の準備に集中しているようだった。

 彼女はユノの手を引き、食堂の隅へ移動した。

「ちょっと、ユノ。これ、本当にフォレストキラービーのハチミツなの?」

「う、うん…さっきも言ったけど、森の村のハチミツ職人の人に少し分けてもらったの」

「少しって……」

 アリサは瓶を両手で包み込むように持った。

 フォレストキラービー。

 森の奥深くに巣を作る魔蜂で、巣に近づくのも容易ではない。冒険者にとっては危険な相手だが、その蜜は格別だといわれている。

 香りが豊かで、甘さに独特の深みがある。

 何より、滅多に市場へ出回らない。

 菓子作りを趣味にしているアリサにとっては、名前を聞くだけでも胸が躍るような素材だった。

「これ、普通のお店じゃまず買えないのよ……」

「そうなの?」

「そうなの、じゃないわよ!」

 アリサは興奮した様子で瓶を見つめた。

「ねえ、これ、少しだけ味見してもいい?」

「もちろん。アリサの為に持ってきたんだから」

「ありがとう、ユノ!」

 アリサは小さな匙を取り、瓶の中からほんの少しだけ蜜をすくった。

 口に運ぶ。

 そして――。

「……っ!」

 目を見開いた。

 甘い。

 けれど、ただ甘いだけではない。

 花の香りがふわりと広がり、そのあとから深い風味が追いかけてくる。いつもの蜂蜜とは、明らかに違っていた。

「なに、これ……。すごい……」

 アリサの声が、思わず小さくなる。

 ユノは嬉しそうに微笑んだ。

「気に入ってもらえた?」

「気に入ったどころじゃないわよ。これでお菓子を作ったら……」

 アリサは、はっと顔を上げた。

 それからユノの両手をぎゅっと握った。

「ユノ!」

「は、はい!」

「これでスイーツを作らせて!」

「えっ?」

「お願い! 絶対においしいものを作るから!」

 ユノは一瞬きょとんとしたあと、満面の笑みを浮かべた。

「うん!お願い!」

 その返事を聞いたアリサは、瓶を胸元に抱きしめた。

「よーし……。何を作ろうかな。焼き菓子もいいし、クリームに混ぜてもいいし……。いっそ、タルトにするのも……」

 ぶつぶつと呟きながら、頭の中で次々に完成予想図を描いていく。

 その顔は、さっきまで試作品の出来に悩んでいたときとは別人のようだった。

 ところが。

「アリサ! そろそろ夕食の仕込みを――」

 厨房から父親の声が飛んできた。

「今やってるわよ!」

「そっちは菓子だろう! 料理を先に――」

「分かってるってば!」

 アリサは返事をしながらも、瓶から目を離さない。

 父親が食堂へ顔を出した。

「まったく、お前は……。ん? なんだ、その瓶は」

「あ、これ? ユノが持ってきてくれたの!」

 アリサは、少し誇らしげに瓶を掲げた。

「フォレストキラービーのハチミツよ!」

「……何?」

 父親の動きが止まった。

「フォレストキラービーって、あの魔蜂か?」

「そう!」

「そんなもん、どうしたんだ?」

「冒険先で報酬で頂いたんです」

 ユノが答えると、父親はしばらく瓶を見つめた。

 それから、娘へ視線を移す。

「……で?」

「で、って?」

「まさかとは思うが、それで菓子を作るつもりじゃないだろうな」

「もちろん、そのつもりだけど?」

「アリサ!」

「なによ!」

「だから、菓子より料理を作ってくれと言ってるだろう!」

「こんな貴重な材料が手に入ったのよ!? お菓子を作らないほうがもったいないじゃない!」

「だからってなあ……!」

 二人の言い合いが始まった。

 ユノは困ったように二人を見比べる。

「あ、あの……。ハチミツ、やっぱり料理に使ったほうがよかったですか?」

 その言葉に、アリサは勢いよく振り返った。

「違う違う! ユノは何も悪くないからね!」

「そうだぞ、ユノ。お前さんが気にすることじゃない」

 父親も、すぐに声を落とした。

「ただな……」

 父親は瓶を見つめ、深いため息をついた。

「そんな貴重なものなら、なおさら料理に使ってほしいんだがなあ……」

「お父さんは黙ってて!」

「なんだと!」

 ユノは、とうとう苦笑した。

 どうやら、アリサがお菓子作りに夢中になるのは、いつものことらしい。

     *

 それからしばらくして。

 夕食の準備が一段落すると、アリサは厨房の片隅に材料を並べ始めた。

 小麦粉、卵、バター、砂糖。

 そして、フォレストキラービーのハチミツ。

 アリサは腕まくりをして、真剣な顔で材料を見つめた。

「よし……。決めた」

「何を作るの?」

 隣で見ていたユノが尋ねる。

「蜂蜜の焼き菓子。まずは素材の香りを生かしたいから、余計なものは入れすぎないようにするわ」

「おいしそう……」

「ふふっ。期待しててね」

 アリサは、ハチミツを少しずつ生地に混ぜ込んでいった。

 その手つきは、いつもの宿屋の仕事をしているときとは違っていた。

 慎重で、丁寧で、どこか楽しそうだった。

 ユノは邪魔をしないよう、少し離れて見守った。

 やがて、生地が焼き上がる。

 厨房いっぱいに、甘く香ばしい匂いが広がった。

「できた……!」

 アリサは焼き菓子を皿に並べ、ひとつをユノに差し出した。

「はい。最初のお客さんね」

「ありがとう!」

 ユノは両手で受け取り、そっと口に運んだ。

 さくり、と表面が軽く崩れる。

 続いて、ハチミツの豊かな香りが広がった。

「……おいしい!」

 ユノの顔がぱっと明るくなった。

「アリサ!これ、すごくおいしい!」

「ほんと?」

「うん!いつものお菓子も好きだけど、これも大好き!」

 アリサは、照れくさそうに笑った。

「そっか。よかった」

 その笑顔を見て、ユノも嬉しくなる。

 そのとき、厨房の入口から父親が顔を出した。

「おい、アリサ。できたのか?」

「うん。味見する?」

「……まあ、せっかく作ったんだ。ひとつくらいはな」

 父親は焼き菓子を手に取り、口へ運んだ。

 しばらく黙って噛みしめる。

 アリサは、少し緊張した様子で父親の顔を見つめた。

 やがて父親は、皿を置いた。

「……うまいな」

「えっ?」

「いや、うまい。ハチミツの香りがいい」

 アリサの顔が、ぱっと輝いた。

「でしょ!?」

「ただな」

「……なに?」

「夕食の仕込みも、ちゃんとやってくれよ」

「もう! お父さんったら!」

 厨房に、アリサの声が響いた。

 ユノは焼き菓子をもうひと口食べながら、楽しそうに笑った。

 フォレストキラービーのハチミツは、滅多に手に入らない貴重な甘味だ。

 けれど、この日ユノが持ち帰ったものは、それだけではなかったのかもしれない。

 大好きな友人が夢中になってお菓子を作り、出来上がったものを一緒に味わう。

 そんな、いつもより少し特別な時間。

 ユノは最後のひとかけらを口に運び、満足そうに頷いた。

「また、何か見つけたら持ってくるね」

「ほんと!? 約束よ!」

 アリサは笑顔で答えた。

 その横で、父親がぼそりと呟いた。

「……次は料理に使えるものを頼むぞ」

「聞こえてるわよ、お父さん!」

 宿屋の厨房には、再び賑やかな声が響いていた。

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