第13話『ブルート討伐』
草原を渡る風は、いつもより少し強かった。
丈の短い草が波のように揺れる。その向こうで、土煙が上がっていた。
「……あれか」
ジュリオが目を細める。
土煙の中心にいたのは、巨大な牛型の魔獣だった。
馬よりも大きな体躯。盛り上がった肩と太い首。頭部から伸びる二本の角は、前方へ向かって鋭く湾曲している。
ブルート。
普段は草原で草を食む魔獣だが、気性が荒く、ひとたび興奮すると見境なく突進する。今回の依頼は、そのブルートが街道近くの草原で暴れ、通行人や近隣の牧場に被害を出しているというものだった。
「ずいぶん元気そうじゃない」
ミレイが淡々と言った。
「元気そう、で済ませるには少々騒がしいのう」
ゲオルグが赤い目を細める。
ブルートは地面を前脚で掻いたかと思うと、突然、目の前の岩へ突っ込んだ。
ドォンッ!
鈍い音が響く。
岩の表面が砕け、破片が草むらに飛び散った。
「……あれ、人間に向かってきたら危ないですよね」
ユノが思わず呟いた。
「だから俺たちが呼ばれたんだろ…さて。あの勢いをどう止めるか、だな」
ジュリオは腰の短剣を確かめながら、いつもの調子で笑った。
エルマが仲間たちを見渡す。
「正面から受け止めようとしないこと。特にユノ、無理に剣で止めようとしないでね」
「はい、エルマさん!」
ユノはショートソードの柄を握り直した。
一年ほど前、パーティに加わったばかりの頃なら、あの巨体を見ただけで足がすくんでいたかもしれない。
今でも怖くないわけではない。
ただ、何をすべきか、少しずつ考えられるようになっていた。
「ジュリオ、誘導を頼む。ワシが盾で動きを制限する。ミレイは隙を見て攻撃。エルマは後方から全体を見ていてくれ」
「了解。ユノは?」
「ワシらの動きを見て、危険がないと判断できたときだけ加勢せい。焦る必要はない」
「分かりました!」
ゲオルグが背負っていたアイアンラージシールドを下ろす。
その重厚な盾が、草原の光を鈍く反射した。
エルマは仲間たちの様子を確かめると、静かに両手を組んだ。
「それでは、戦闘前に支援を施しておきますね」
穏やかな声とともに、エルマが詠唱を始める。
「――プロテクション」
柔らかな光が仲間たちを包み込み、身体の周囲に防護の魔力が行き渡っていく。
続いて、エルマはもう一度、短く詠唱した。
「――ブレス」
今度は、身体の内側から力が満ちていくような感覚が広がった。手足がわずかに軽くなり、普段よりも身体を動かしやすくなる。
二つの魔法を施し終えたエルマは、仲間たちを見渡した。
「念のため、防御と身体能力を支援する魔法をかけておきました。ただし、過信は禁物ですよ。ブルートの突進をまともに受ければ、無事では済みませんからね」
「うむ。支援はありがたいが、油断はせぬよ」
ゲオルグが盾を構え直す。
「助かるぜ、エルマ。これで少しは楽に動けそうだ」
ジュリオも軽く肩を回し、足元を確かめた。
「身体が軽くなるのはありがたいわね。魔法の効果を過大評価するつもりはないけれど」
ミレイはそう言いながら、ブルートとの距離を測る。
ユノも自分の手を握ったり開いたりして、身体の感覚を確かめていた。
「ありがとうございます、エルマさん!」
「どういたしまして。ユノも、無理はしないでね」
「はい!」
エルマは微笑み、仲間たちの背中を見送るように一歩下がった。
「それでは、皆さん。気をつけて」
「よし、じゃあ始めますか」
ジュリオが軽やかに走り出した
*
ブルートの注意を引くのは、そう難しくなかった。
ジュリオが横合いから石を投げると、魔獣はすぐさま反応した。
「おーい、こっちだぞ。角の手入れでもしてやろうか?」
もちろん、返事はない。
ブルートは頭を低くし、地面を蹴った。
「おっと!」
ジュリオが横へ飛び退く。
巨大な体が、彼のいた場所を猛然と通り過ぎていった。
その先にゲオルグが立っている。
「来い!」
ブルートが方向を変え、再び突進した。
ゲオルグは盾を正面に構える。だが、真正面から衝撃を受け止めるつもりはなかった。
直前で足を踏み替え、盾の角度をわずかに変える。
ドンッ!
激しい衝撃音。
盾が大きく揺れ、ゲオルグのブーツが草地を削った。それでも、彼は踏みとどまった。
ブルートの巨体が盾に沿って流れ、わずかに進路を逸らされる。
「ほほう…なかなかの力じゃな」
「感心してる場合かよ!」
ジュリオが叫びながら、再びブルートの側面へ回り込む。
魔獣は急旋回しようとしたが、大きな体がすぐには追いつかない。
その隙に、ミレイの魔法が放たれた。
地面から伸びた土の突起が、ブルートの前脚の進路を塞ぐ。
魔獣は大きくよろめき、前脚を踏み直した。
「今よ!」
エルマの声が飛ぶ。
ゲオルグが盾を構え直し、ブルートの頭部がこちらを向く前に距離を詰めた。
そして、アイアンメイスを振るう。
鈍い打撃音が響いた。
ブルートは数歩よろめき、荒い息を吐いた。
「まだ来るぞ!」
ジュリオが叫んだ。
魔獣は怒りに任せて頭を振り、最後の力を振り絞るように突進した。
今度は、ユノのいる方向だった。
「ユノ!」
エルマの声が響く。
ユノは一瞬、体を強張らせた。
大きい。
近い。
あの角に当たれば、革鎧など何の役にも立たないだろう。
だが、ブルートの動きは一直線だった。
ユノは横へ走った。
突進の軌道から外れる。すぐ後ろで地面が抉れ、土が跳ねた。
振り返ると、ブルートの動きが鈍っていた。
「今なら……!」
ユノは剣を握り、魔獣の側面へ回り込む。
無闇に斬りつけるのではなく、仲間たちが作った隙を使う。
ブルートが体勢を立て直す前に、ユノは剣を振った。
刃が魔獣の前脚の付け根付近を捉える。
深手ではない。
それでも、ブルートの動きをわずかに止めるには十分だった。
「よし、ユノ。離れろ!」
ジュリオの声に、ユノはすぐさま後退した。
その直後、ゲオルグが再び盾を構えて前に出た。
「これで終いじゃ!」
メイスの一撃が、ブルートの頭部を打つ。
巨体が大きく揺れ、やがて草原に倒れ込んだ。
土煙がゆっくりと晴れていく。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは、ジュリオだった。
「……いやあ、元気な牛だったな」
「牛ではなく、魔獣よ」
ミレイが即座に訂正する。
「見た目は牛だろ?」
「分類上の話をしているのではないわ」
「はいはい。学者先生は厳しいねえ」
「あなたが雑なのよ」
いつものやり取りに、ユノはようやく肩の力を抜いた。
「みんな、怪我はない?」
エルマが一人ずつ確認する。
盾を構えたゲオルグの腕には多少の負担があったが、深刻な怪我はない。ユノにも異常はなかった。
「ユノ、最後の動きは悪くなかったわ。ただ、もう少し早く距離を取ってもよかったわね」
「はい。あのとき、少し焦っちゃいました」
「自分で危険に気づいて退けたのは良かったわ。次は、もっと早く判断できるようにしましょう」
「はい!」
ユノは素直に頷いた。
その表情には、安堵と小さな達成感が混じっていた。
*
「さて、と」
一息ついたジュリオが、倒れたブルートを見下ろした。
「ここからが本番だな」
ユノは首を傾げた。
「本番?」
「まさか、討伐して終わりだと思ってたのか?」
「あっ、そうだった!」
ユノは慌てて道具袋を開いた。
魔獣を討伐したら、素材を回収する。
冒険者なら誰もが知っている、ごく当たり前の仕事だ。討伐報酬とは別に、素材を売却すれば収入になる。角や皮、骨、肉など、魔獣の種類によって利用できる部位も異なる。
「まずは角だな。あれは売れる」
ジュリオがブルートの頭部を指した。
「それから皮。傷が少なければ防具の材料になる。骨も使い道があるし、肉は食用にできる部位を確認する」
「血抜きも早めに、ですね?」
「おっ、分かってるじゃないか」
「この前、教えてもらいましたから!」
ユノは少し誇らしげに答えた。
ゲオルグがブルートの頭部を押さえ、ジュリオが角の根元を確認する。
「ふむ。片方は少し欠けておるな」
「岩にぶつけたときの傷でしょうね」
ミレイが角の表面を観察する。
「根元に亀裂がないか確認しておきなさい。表面だけでは判断できないわ」
「分かりました、ミレイさん」
五人は手分けして作業を進めた。
ジュリオが皮の剥ぎ取りを主導し、ゲオルグが巨体を支える。エルマは肉の状態や衛生面を確認し、ミレイは角や骨の損傷を調べた。
ユノも教わりながらナイフを動かす。
「そこは力を入れすぎるな。刃を押し込むんじゃなくて、皮と肉の境目を探すんだ」
「こ、こうですか?」
「そうそう。悪くない」
ジュリオに褒められ、ユノの表情が明るくなる。
ところが、次の瞬間。
「あっ……!」
刃が少し深く入りすぎた。
「ご、ごめんなさい!」
「まあ、最初から完璧にはいかんさ。そこは小さく切り分けて、別扱いにすればいい」
ジュリオは怒ることもなく、修正方法を教えた。
ユノは失敗した部分を確認し、次の作業では同じことを繰り返さないよう、慎重に刃を動かした。
やがて、回収した素材が草地の上に並べられた。
角、皮、骨、肉。
それぞれを種類ごとに分け、状態を確かめる。
そこで、ユノがふと顔を上げた。
「ねえ、ジュリオさん。素材って、持ち帰る間にも傷んでいくんですよね?」
「そうだな。特に肉は時間との勝負だ。皮だって処理が遅れれば品質に響く」
「そっか……」
ユノは並べられた素材を見つめた。
薬草を採取したときも、時間が経てば水分が失われ、葉の張りがなくなり、香りも薄れていく。
素材は、手に入れた瞬間から少しずつ状態が変化していくのだ。
それなら。
「私の保存魔法、使ってみてもいいですか?」
「もちろんだ。持ち帰るまでの状態が保てるなら助かる」
ジュリオの返事に、ユノは頷いた。
ただし、ひとまとめにして魔法をかけるつもりはなかった。
肉と皮では、維持したい状態が違う。
角や骨は水分を保つ必要がないし、むしろ余計な水分が付着したままなら、取り除いてから保管したほうがいい。
ユノはまず、素材を種類ごとに分け直した。
「お肉は、切り分けたときの状態を保つ。皮は、余計な水分が残らないようにして、傷んでいかないように……」
口に出しながら、ひとつずつ対象を確かめる。
保存魔法は、ただ対象を包み込めばいいわけではない。
どんな状態を維持するのか。
何を変化させず、何をそのままにしておくのか。
ユノは対象ごとに、その違いを細かく調整していく。
*
最初に取りかかったのは、肉だった。
血抜きと切り分けを終えた肉を、部位ごとに並べる。
ユノは一切れを手に取り、表面を確かめた。
「この状態を保てばいいんだよね……」
魔力を巡らせる。
肉の表面に残った水分。切り口の状態。身の弾力。
それらをひとつずつ意識しながら、ユノは保存魔法をかけた。
魔法をかけた肉は、見た目にはほとんど変わらなかった。
色が変わるわけでも、光り輝くわけでもない。
ただ、ユノには分かる。
魔法をかける前と後で、維持すべき状態が安定した感覚があった。
「……よし」
ユノは肉を元の場所に戻した。
続いて皮。
こちらは肉とは違う。
表面に余分な水分が残っていれば、処理の妨げになる。だからといって、必要以上に乾燥させれば、皮の質感にも影響する。
ユノは皮の表面と内側を意識しながら、処理を終えた状態が変化しないように魔法を調整した。
「同じ保存でも、こっちは少し違うんです」
「何が違うのですか?」
エルマが尋ねた。
「お肉は、切り分けたときの状態を保ちたいんです。でも皮は、処理が終わった状態を保ちたいから……。同じように魔法をかけるだけじゃ、うまくいかない気がして」
「なるほど。対象に合わせて維持する状態を変えているのね」
「はい。薬草のときと同じです」
薬草の保存でも、ユノは葉の張りや水分、香りを意識していた。
ただ長持ちさせるのではない。
採取したときに保たれていた、薬草として望ましい状態を維持する。
その制御の精密さが、ユノの保存魔法の特異なところだった。
そして今、その対象が薬草から魔獣の素材へと広がっている。
ユノは角と骨にも魔法をかけた。
こちらは肉や皮ほど複雑ではない。表面の状態や、処理後の乾いた状態を保つことを意識すればいい。
ただし、すでに付いてしまった傷が消えるわけではない。
欠けた角が元に戻るわけでもない。
あくまで、今ある状態を維持するための魔法だった。
「これで、ひと通り終わりました!」
ユノは額の汗を拭った。
「ずいぶん丁寧にやるんだな」
ジュリオが感心したように言う。
「だって、せっかく手に入れた素材ですもん。できるだけ良い状態で持って帰りたいですから!」
ユノは当たり前のことのように答えた。
「それに、素材を使う人だって、きれいな状態のほうが嬉しいと思いますし」
ジュリオは一瞬だけ目を丸くしたあと、口元を緩めた。
「なるほどね。そりゃ、職人も喜ぶだろうさ」
「まだ、どこまでできるか分からないけどね」
ミレイが冷静に付け加えた。
「保存魔法は、対象を傷つけないための万能な防護ではないわ。運搬中にぶつけたり、圧力をかけたりすれば、当然、物理的な損傷は起こり得る。状態を維持することと、外部からの衝撃を防ぐことは別よ」
「はい。気をつけます!」
ユノは頷いた。
「それに、対象が増えれば集中力も必要になるでしょう。今回のように種類ごとに分けて扱うのは、合理的な方法ね」
「うん。私もそのほうが分かりやすいです」
ユノは、保存を終えた素材を改めて確認した。
特別なことをしたという実感はない。
ただ、一つひとつの状態を確かめ、適切な状態を維持しようとしただけだ。
けれど、その細かな調整こそが、ユノの保存魔法の強みだった。
*
素材の回収を終えた五人は、荷物をまとめて街へ戻った。
「いやあ、今日は荷物が多いな」
ジュリオが荷車を引きながらぼやく。
「お主が、あれもこれも持ち帰ると言ったからじゃろう」
ゲオルグが笑った。
「売れるものを持ち帰るのは冒険者の基本だろ?」
「それはそうじゃがな」
ユノは二人のやり取りを聞きながら、荷車に積まれた素材を見た。
肉も皮も角も、きちんと分類してある。
運搬中に傷がつかないよう、置き方にも気を配った。
これで、ギルドに持ち帰るまでの状態は維持できるはずだ。
「ユノ、疲れていませんか?」
エルマが尋ねた。
「大丈夫です。ちょっと集中したけど、平気!」
「無理はしないでね。保存魔法も、使い続ければ疲れるでしょうから」
「はい、エルマさん」
*
冒険者ギルドに戻ると、五人はまず討伐の報告を済ませた。
その後、回収した素材を納品・選別スペースへ運び込む。
作業台の向こうでは、職員が受け取った素材を一つずつ確認していた。
「ブルートの角が二本。こちらは欠けが少ないですね」
職員は角を手に取り、表面と根元を丁寧に調べた。
「皮も、比較的良い状態です。切り分け方に少し難はありますが、十分に買い取り可能でしょう」
続いて、肉の状態を確認する。
職員は部位ごとに並べられた肉を見比べ、表面の状態や弾力、色合いなどを確かめた。
「……こちらも、問題ありませんね」
「よかった!」
ユノがほっと息をつく。
職員は一度頷いたものの、ふと手を止めた。
「ところで、皆さん。これらの素材は、討伐後すぐに処理されたのですか?」
「ええ。剥ぎ取りを終えたあと、持ち帰るまでの間に状態を保つ魔法を使いました」
ユノが答えた。
「状態を保つ魔法、ですか」
職員はもう一度、肉と皮を見比べた。
「なるほど……」
それ以上、何かを尋ねることはなかった。
素材の状態が良いこと自体は、冒険者にとって悪いことではない。丁寧に処理し、適切に運搬したのなら、それは技術のうちだ。
職員は必要な項目を記録し、査定を進めた。
角は良品。皮は一部に傷があるものの実用範囲。骨も状態に問題はない。肉についても、食用として扱える部位が確認された。
「こちらが討伐報酬とは別の、素材の買い取り額になります。内容をご確認ください」
ジュリオが書類に目を通す。
「よし。悪くないな」
「どれくらいになったんですか?」
ユノが尋ねると、ジュリオは書類を少し傾けた。
「今日の働きに見合うくらいにはなったさ。討伐報酬だけでなく、素材もきちんと回収できたからな」
ゲオルグが満足そうに頷いた。
「無駄なく仕事を終えられたのはよいことじゃ」
「はい!」
ユノは嬉しそうに返事をした。
討伐して終わりではない。
魔獣を倒し、素材を回収し、傷つけないように扱い、持ち帰るまで品質を維持する。
そのすべてが、冒険者の仕事だった。
そしてユノにとっては、自分の魔法が仲間の役に立つことを、またひとつ実感できた一日でもあった。
「さて、仕事も終わったことだし、飯にするか」
ジュリオが伸びをする。
「今日は肉料理がよさそうね」
エルマが微笑んだ。
「ブルートの肉って、どんな味なんでしょう?」
ユノが首を傾げる。
「さあな。肉屋で見かけたら聞いてみるか」
「いいですね!」
「お主ら、食べる話になると元気が出るのう」
ゲオルグの呆れた声に、ジュリオが笑う。
「冒険者だって、腹は減るんだよ」
五人は並んで歩き出した。
草原での激しい突進も、慣れない剥ぎ取り作業も、ギルドでの査定も、今日の仕事の一部だった。
ユノは道具袋を軽く叩いた。
今日覚えたことを、忘れないようにしよう。
そう思いながら、仲間たちの後を追った。




