第九章 今川と水野
会場中の視線が壇上へ集まっていた。
スポットライトを浴びながら、水野愛子は幸せそうな笑みを浮かべている。
その隣には、PC事業部部長の今川誠司。
まるで最初から決まっていたかのように、二人は自然に並んでいた。
「私の結婚相手は、PC事業部の今川部長です!」
会場から再び歓声が上がる。
愛子は今川へ寄り添いながら続けた。
「今川部長は、このプロジェクトの功労者です。今川部長の協力無くして、このプロジェクトの成功はあり得ませんでした」
今川は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、軽く手を振る。
完全に勝者の顔だった。
「これからはコンシューマ事業部とPC事業部は連携して、三ツ葉エレクトロニクスを今まで以上に発展させていきたいと思います!」
拍手。
祝福。
だが、その中で一人だけ取り残された男がいた。
水戸邦光だった。
理解が追い付かない。
頭の中が真っ白だった。
そして次の瞬間。
「ちょっと待って!愛子!これはどういう事だ!?俺と結婚するんじゃなかったのか!?」
水戸は思わず叫んでいた。
会場がざわつく。
愛子はゆっくりと水戸を見た。
その目は冷たかった。
「あんたと?」
愛子は鼻で笑う。
「何言ってんの? あんたみたいな役立たずの無能と結婚する訳ないでしょ」
会場がさらにざわつく。
愛子は蔑むような視線を向けながら続けた。
「明日にでも、私の権限で平社員に戻してあげるわ」
水戸は言葉を失った。
「何言ってるんだ!?約束したじゃないか!」
水戸は必死に訴える。
「それに半導体不足の解消も、広告費増額も、サードパーティー参入も、充分な功績があっただろ!それなのに降格なんて理不尽じゃないか!」
「理不尽?」
愛子は呆れたように笑った。
「半導体の件も広告費の件も、今川部長が根回ししてくれたお陰よ」
会場がどよめく。
「サードパーティー参入だって、あんたが“外回り”を口実にサボってる間に、今川部長が各メーカー担当者へ話を通してくれてたの」
愛子は今川を見上げる。
その視線は完全に恋する女のものだった。
「今川部長が話してくれなかったら、私、あんたに騙されるところだったわ」
それを聞いた久松が納得したように頷く。
「やっぱり、そういう事だったのか」
ニヤニヤしながら言う。
「無能の平社員が、あんな功績上げられる訳ねぇと思ったんだよ」
周囲からも失笑が漏れ始める。
だが水戸は食い下がった。
「そんなの嘘だ!愛子!俺の言う事を信じてくれないのか!?」
必死だった。
しかし愛子は冷たく言い放つ。
「無能のクズの言う事なんて信じられる訳ないでしょ」
その一言は、水戸の胸へ深く突き刺さった。
水戸は今川を睨む。
「今川部長!あんた何でそんな嘘をつくんだ!?」
すると今川は鼻で笑った。
「嘘をついてるのはお前だろ」
そして水戸へ歩み寄る。
「お前ごとき無能の平社員が、部長の私に楯突くのか?無礼者が!」
そう言うと、手に持っていた赤ワインを水戸へぶちまけた。
真っ赤な液体が高級スーツへ染み込む。
「何するんだ!!」
水戸が怒りを露わにする。
すると横で見ていた久松が爆笑した。
「はははっ! 大事な一張羅が台無しだな!」
今川も嫌らしい笑みを浮かべる。
「すまんすまん。ついイラッとしてな」
まるで反省していない。
「弁償してやるよ。一万か?二万か?」
会場からクスクスと笑い声が漏れる。
だが、水戸の目は冷たかった。
「これは、お前ごときが弁償出来るようなしろもんじゃない」
その迫力に、一瞬だけ今川が怯む。
「何だと!?」
今川は水戸の襟を掴んだ。
水戸は低い声で言う。
「このスーツはブリオーニのオーダーメイドだ。値段は百五十万円」
「百五十万!?」
周囲がざわめく。
さすがにその金額には誰も笑えなかった。
「嘘つけ!」
今川が苦し紛れに叫ぶ。
すると水戸はスーツ裏側のタグを見せた。
「だったらタグを見てみろよ」
今川が確認する。
「た、確かにブリオーニ……」
しかし次の瞬間、今川が眉をひそめた。
「ん? 名前が違うぞ」
水戸は一瞬で気付く。
タグには“for Tokugawa”と刺繍されていた。
咄嗟に水戸はタグを隠す。
だが、その動きが逆に怪しく見えた。
今川は勝ち誇ったように笑う。
「なんだ。やっぱり借り物なんじゃないか。それとも盗んだか?」
そう言って水戸を突き飛ばした。
周囲から笑い声が上がる。
水戸は踏みとどまりながら言う。
「これは俺が買ったんだ。家に帰れば領収書もある」
だが愛子は完全に冷めた目で水戸を見ていた。
「見苦しいわね」
その声は冷酷だった。
「口先と見栄だけの嘘つき。やっぱり、あんたなんかと結婚しなくて正解だったわ」
「何で信じてくれないんだ!?」
「信じられる訳ないでしょ」
愛子は即答する。
「今回のプロジェクト成功は、私と今川部長のお陰。もちろん他のメンバーも頑張ってくれたわ。あなた以外はね」
会場の空気が完全に水戸を嘲笑う側へ傾いていた。
だが水戸は引かなかった。
「半導体も広告費もサードパーティーも俺の功績だ!」
会場へ向かって叫ぶ。
「そもそも愛子をプロジェクトリーダーに選んだのは俺だ! 俺がいなければ、プロジェクトチームに入れたかどうかも分からないんだぞ!」
その瞬間。
会場が爆笑に包まれた。
愛子は呆れ果てた顔をする。
「あんたに何の権限があってそんな事が出来るっていうの?」
そして決定的な言葉を放つ。
「私をプロジェクトリーダーに指名したのは、ご老公様よ!嘘もたいがいにして!」
さらに今川も笑う。
「お前みたいな無能平社員の言う事と、部長の俺の言う事なら、普通どっちを信じる?」
会場から失笑が漏れる。
水戸は静かに目を閉じた。
(榊原は横領犯の尻尾を掴んだと言っていたな……)
当初の目的は果たした。
ならば、もう隠す必要は無い。
水戸――いや、徳川光圀はゆっくりと顔を上げる。
そして愛子を真っ直ぐ見つめながら、静かに言った。
「愛子……」
会場が静まり返る。
「俺がお前の言う“ご老公”、徳川光圀だ」




