第十章 偽りの老公
水戸の言葉が会場へ響き渡る。
「俺がお前の言う“ご老公”、徳川光圀だ」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、会場が静まり返った。
だが次の瞬間。
どっと爆笑が巻き起こった。
「あははははっ!」
「おいおい!」
「マジかよ!」
誰も信じない。
当然だった。
三ツ葉グループの絶対権力者。
国内トップクラスの巨大企業を築き上げた創業者。
“ご老公”と呼ばれる存在。
そんな人物が、こんな若い平社員のはずがない。
それがこの場にいる全員の常識だった。
愛子は呆れたように肩を震わせる。
「あはははっ、邦光」
その目には軽蔑しか無かった。
「無能の上に、頭までおかしくなったの?」
周囲からクスクスと笑い声が漏れる。
「そんな見え見えの嘘までついて。笑わせないで」
水戸は何も言わない。
ただ静かに愛子を見つめていた。
一方、今川はワイングラスを揺らしながら鼻で笑う。
「言うに事欠いて、ご老公様の名を騙るとはな……」
そして、わざと周囲へ聞こえるように言った。
「これはもう冗談では済まない問題ですよ」
久松も大笑いしている。
「水戸!嘘つくなら、もっと上手い嘘つけよ!」
「そうだそうだ!」
「無能のクセに話盛り過ぎだろ!」
会場は完全に水戸を笑い者にしていた。
すると愛子が冷たく言い放つ。
「あんたみたいな無能のクズで、しかも嘘つきは、もう降格じゃ足りないわ」
そして。
「クビね」
その言葉に会場がざわつく。
だが今川は満足そうに頷いた。
「そうだな」
そして視線を会場の奥へ向ける。
「幸い、渡辺本部長も牧野人事部長も来ている」
ニヤリと笑った。
「二人にお願いして、クビにしてもらおう」
愛子は嬉しそうに頷く。
そして壇上から声を張り上げた。
「渡辺本部長!牧野人事部長!」
会場の視線が二人へ集まる。
「この水戸邦光は、ご老公様の名を騙って騒ぎを起こしています!今すぐクビにして追い出して下さい!」
渡辺と牧野は、先程からステージ脇で成り行きを見守っていた。
渡辺は五十代後半の本部長。
牧野は人事部長である。
渡辺は少し困ったような顔をしながら言う。
「そうだな……。ご老公様の名を騙るのは不敬だ」
会場がざわつく。
だが渡辺は慎重だった。
「牧野君、いいな?」
しかし牧野は即答しなかった。
「い、いや、その……」
妙に歯切れが悪い。
「水戸君に関しては、榊原社長の許可が無ければ決められないんです」
会場がざわつく。
愛子が眉をひそめる。
「何でですか?」
「い、いえ、その……今、電話して確認しますので……」
牧野は額へ汗を浮かべながらスマートフォンを取り出した。
そして榊原へ電話を掛ける。
数秒後。
『……はい、榊原です』
電話が繋がる。
「榊原社長、実はプロジェクトチームの水戸が、ご老公様の名を騙って騒ぎを起こしております」
牧野は慎重に言葉を選びながら続けた。
「クビにすべきという意見も出ており、事態収拾のため解雇して追い出したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
次の瞬間。
電話越しに怒鳴り声が響いた。
『馬鹿者ォ!!』
会場中に聞こえるほどの大声だった。
牧野が思わずスマートフォンを耳から離す。
『そんな事してみろ!!お前たち、ただじゃ済まないぞ!!』
会場の空気が変わる。
『もう少ししたら俺も行く!下手な真似するなよ!!』
ブツッ。
通話が切れた。
牧野は青ざめた顔でスマートフォンを下ろす。
そして隣の渡辺へ小声で言った。
「本部長……今の電話、聞こえましたか?」
「ああ、聞こえた……」
渡辺の表情も硬い。
「もしかして……本物のご老公様……?」
だが次の瞬間、自分でその考えを打ち消すように首を振った。
「いや……そんな訳ないか……」
そう言いながらも、声には迷いが混じっていた。
「どちらにしても、下手に首を突っ込まない方が身のためだな」
「そ、そうですね……」
完全に及び腰だった。
すると愛子が苛立ったように言う。
「本部長!何を迷ってるんですか!?明らかに嘘つきじゃないですか!」
だが渡辺は距離を取るように言った。
「悪いが、水戸君の進退に関しては我々では決められない」
「え……?」
「もう少ししたら榊原社長が来る。直接お願いしてみるんだな」
完全に逃げた。
火の粉が自分へ飛んで来ないように。
今川の顔が僅かに引きつる。
「本部長も人事部長もクビに出来ないなんて……まさか……?」
愛子は即座に否定した。
「いえ! そんな筈ないわ!」
久松も慌てて言う。
「そうだ! どうせ榊原社長の遠い親戚とか、その程度だ!」
その言葉に今川も少し落ち着きを取り戻す。
「……そうだな」
自分へ言い聞かせるように頷く。
「ご老公と呼ばれてる方が、こんな若造の訳ないな」
だが。
その言葉とは裏腹に、会場の空気は少しずつ変わり始めていた。
誰も笑わなくなっていた。




