第六章 五億円の決裁
三ツ葉エレクトロニクス経理部。
企画部とは違い、このフロアには独特の重苦しさがあった。
数字。
予算。
決裁。
利益。
会社の金を管理する部署だけあって、空気は冷たく、神経質だ。
その最奥にある部長室の前で、水戸邦光は軽くネクタイを整えた。
そしてノックをする。
「失礼します」
「入れ」
中からぶっきらぼうな声が返ってきた。
水戸が部屋へ入ると、大柄な男が椅子へ深く腰掛けていた。
三ツ葉エレクトロニクス経理部長、中根。
五十代前半。
数字に厳しく、融通が利かないことで有名な男だった。
「ゲーム・ステーション開発プロジェクトチームの水戸邦光です。プロジェクトの広告費増額をお願いに上がりました」
「水戸?」
中根が怪訝そうな顔をする。
「役職は?」
「あ、ありません」
「なんだ、平社員か……」
露骨に興味を失った顔だった。
「広告費増額? ダメだな」
即答。
話を聞く気すら無い。
だが水戸は動じなかった。
「中根経理部長。榊原社長から聞いてませんか?」
その言葉に、中根の眉が僅かに動く。
(確か、“誰かが直々に申し出て来るまでは出すな”って話だったな……)
榊原から事前に連絡は受けていた。
だが、中根は勝手に思い込んでいた。
“直々に来る”のだから、それなりの役職者だろう、と。
まさか平社員とは思わなかったのだ。
(しかし、こんな若造がその本人の訳ないか……)
「さあ? 知らんね」
中根はわざとらしく肩をすくめた。
(榊原のヤツ、ちゃんと説明しとけよ……)
水戸は内心で小さく溜息を吐く。
「私は忙しいんだ。増額なんか出来ないから、さっさと出て行け!」
中根は立ち上がると、水戸を半ば追い出すように部屋の外へ押し出した。
バタン、とドアが閉まる。
その様子を少し離れた場所から見ていた男たちが笑い出した。
「それ見た事か!」
「部屋から追い出されて無様な……!」
久松と蜂屋だった。
二人は完全に勝ち誇っている。
しかし水戸は特に気にした様子も無く、経理部長室の前でスマートフォンを取り出した。
そして電話を掛ける。
◇
一方その頃。
三ツ葉エレクトロニクス社長室。
榊原は部下からの報告書へ目を通していた。
その時、スマートフォンが鳴る。
画面を見た瞬間、榊原は表情を引き締めた。
「ご老公からだ。何かあったのか……?」
慌てて通話ボタンを押す。
「お疲れ様です、ご老公」
『おい!』
電話越しの声は低かった。
『広告費の件、経理部長に話してないのか!?』
榊原の背中に冷や汗が流れる。
(ご老公様がお怒りだ……!?)
「い、いえ! ちゃんと話してあります!」
『今、経理部長の所へ行ったら断られたぞ!』
「も、申し訳ありません!!」
榊原は思わず立ち上がった。
「今すぐ電話して広告費を増額させます! 経理部長室の前で少々お待ち下さい!」
通話が切れる。
榊原は即座に中根へ電話を掛けた。
◇
経理部長室。
中根は不機嫌そうに書類へ目を通していた。
そこへ電話が鳴る。
「社長からだ……。忙しいのに何の用だ」
ぶつぶつ言いながら通話へ出る。
「はい、中根です」
『中根経理部長!!』
怒声だった。
中根は思わず背筋を伸ばす。
『水戸邦光という者が広告費増額を願い出たら、五億円の増額をしろと言ってあるだろう!! 何故断った!?』
「え……? でも平社員の若造でしたよ?」
『そんな事は関係ない!!』
榊原の怒鳴り声が響く。
『まだ部屋の前でお待ちの筈だ! 平身低頭、謝って直ぐに増額しろ! そうじゃなきゃ俺でも守り切れんぞ!!』
「わ、分かりました!!」
中根は慌てて電話を切った。
顔色は真っ青だった。
「ま、まさか……!」
中根は椅子を蹴るように立ち上がり、部屋を飛び出す。
すると、そこには静かに立つ水戸邦光の姿があった。
「も、申し訳ございませんでした!!」
中根は深々と頭を下げる。
そして慌てて水戸を部屋へ招き入れた。
それを遠くから見ていた久松と蜂屋は呆然とする。
「な、何だ!? 何があった!?」
「経理部長が謝ってるように見えたぞ!?」
二人は理解出来なかった。
◇
部長室へ戻ると、中根は震える手で書類を作成し始める。
「申し訳ございませんでした……。こちらが広告費増額承認の書類です」
水戸は書類へ目を通す。
承認額――五億円。
問題無い。
水戸は静かに言った。
「上からの簡単な指示も遂行出来ないようでは部長失格だな。降格の辞令があると思うから覚悟しておくんだな」
その瞬間、中根の顔が引きつった。
「お、お前ごとき平社員が偉そうに!そんな権限があるのか!?」
「この期に及んで、まだそんな事を言うのか……」
水戸は小さく息を吐く。
そしてスマートフォンを取り出した。
榊原へTV電話を掛ける。
『はい、ご老公』
「榊原社長。こいつに俺が誰だか教えてやれ」
水戸はスマートフォン画面を中根へ向けた。
「榊原社長!?」
中根の顔が強張る。
榊原は怒鳴った。
『中根!!このお方をどなたと心得る!!』
その声には本気の怒気が宿っていた。
『恐れ多くもご老公様! すなわち三ツ葉グループ絶対最高権力者にして、三ツ葉ホールディングス代表取締役社長、徳川光圀様なるぞ!!控えおろう!!』
空気が凍った。
「は……?」
中根の思考が止まる。
目の前の冴えない平社員。
それが三ツ葉グループの頂点?
信じられなかった。
だが榊原がそこまで言う以上、事実なのだ。
「は、ははーっ!!」
中根は土下座した。
床へ額を擦り付ける。
「も、申し訳ございませんでした!!」
水戸は冷静な声で言う。
「中根。この件は内密にな。もし漏らせば降格どころでは済まないぞ」
「は、はい!!」
水戸はそれ以上何も言わず部屋を出た。
◇
部長室の外。
久松と蜂屋が慌てて駆け寄ってくる。
「どうだったんだ?」
「広告費増額してくれましたよ」
水戸は承認書を見せた。
「ご、五億!?」
「そんなにか!?」
二人の顔が引きつる。
まさか本当に成功するとは思っていなかったのだ。
「ええ」
水戸は静かに微笑む。
「その代わり、必ずプロジェクトを成功させろって事なんで。頑張りましょう!」
そう言うと、水戸はその場を後にした。
久松と蜂屋は呆然と立ち尽くす。
そして二人は知らない。
今、自分たちが見下している平社員こそが、この巨大企業グループの頂点に立つ男だという事を。




